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将棋連盟幹部諸氏の新時代に適応した諸政策が、この困難な時代によく棋界の黄金時代を招来した原因であつて、深く敬意を表する。本誌はこの新しい棋界のより良き発展の一助たるべく発足したものであつて、旧套を葉て時代の新感覚を追求して、将棋の永遠の前進向上に貢献せんことを使命とする。とあり、将棋だけでなくチェスの普及も考えて発刊された雑誌であることがわかる。
終戦の齎らした多くのことの一つにチェスの流行がある。チェスは将棋とその先祖を同じくし、兄弟の関係にある。最も近いゲームであるが、従来は比較的我国には普及を見なかつた。
戦後の世界チエス界は将棋と同様空前の隆盛振りで就中、米国、ソ連のチエス熱は凄まじい。日本チェス界も次第に有力となり近く日米対抗試合の学もある由て、その国際的進出も単に時機の問題と思われる。
本誌はこゝに着目し、チエスの普及をその使命の一つと考え之を取上けることとした。
創刊の辭に代えて『将棋とチェス』創刊號
順位戦の機構は欠陥の多いもので、いろ/\改革が叫ばれて来た。将連当局もよく之を知つて之が画期的な改革を思い立ち将棋新聞紙上に発表した。その骨子は凡そ次の通りであつたこの後に続く三・四の項は異議があり撤回されたとのことだが、一・二は採用されたとのことである。
一、BC級の対局を倍加して各八局とする。
二、時間記録方法を改めてチエス時計を使用し、一分間以内切捨を発する従つて持時間を一時間増して八時間とする
中島富治「将棋夜話(その三)」『将棋とチェス』1949年8月号
今期順位戦は持時間を八時間と一時間の延長をしたがチエスオクロツクを使用するため一秒と雖も持時間の消費として計算されるので従来の一分将棋はなくなり終盤の指し手に要する時間を考慮して置かねばならないやはりチェスクロック方式が採用されたようで、8時間切れ負けとして運用される手筈となっている。
順位戦新編成『将棋評論』1949年8月号
日本将棋連盟は昨年の順位戦ではじめてチエスクロツクを採用したが、終盤最後の緊要時に支障ありとして、最後の一分間となつてからは従来通り一分未満切捨制を再用(原文ママ)した。そのうちチエスクロツクの故障続出などによつて一先づ之れが使用を廃して旧制に復して仕舞つた。時計の故障はいたし方もないがその他の理由は首肯し難い。チエスクロツクは将連がはじめて使用するのではない。チエスでは世界各国悉く之れを使用して居る。不慣れのための欠陥は慣れることによつて解消すべきである。チエスクロツク使用の効果は大きい。進んで之れを取り入れることを希望してやまぬ。なるほど。確かにチェスクロック方式は採用されたようであるが、結局廃止になったようである。
中島富治「将棋夜話(その九)」『将棋とチェス』1950年2月号
第1局第1日
08・02(中村)食堂で朝がゆ定食
08・10(中原)食堂へ。洋定食の朝食
12・35(中村)昼は中原と同じカレー
12・40(中原)食堂でカレーライス。アイスクリームも特注
20・05(中原)「少しやりますか」と娯楽室へ。麻雀です
21・10(中村)娯楽室で麻雀観戦
『スポーツニッポン』1986/1/17
第1局第2日
10・00(中原)「ミネラルウォーターとホットミルクを」と注文
10・00(中村)「僕は何もいりません」
12・40(中原)食堂でナベ焼きウドン
12・40(中村)予定変更、自室でソバほとんど手つけず
18・15(中原)自室でポタージュ、カニコロッケたいらげる
18・20(中村)自室で雑炊に“挑戦”するが、食進まず
21・37(中原)「どうも、負けました」
21・37(中村)その瞬間「はぁ」信じられぬ表情
『スポーツニッポン』1986/1/18
第3局第1日
09・13(中原)「ちょっと部屋の空気入れ替えましょうか」
09・13(中村)王将の言葉に“オーさむ”とジェスチャー
12・30(中村)中庭で撮影会「イメージが違うなあ」
13・40(中原)「私の辞書に千日手はない」6分後千日手に
13・46(中村)千日手成立。普通の顔
18・20(中原)「忙しそうだねえ」とスポニチ取材室を急襲
20・30(中村)週刊誌の取材。「またヤラセの写真とるかな。」
『スポーツニッポン』1986/2/4
第3局第2日
12・40(中原)自室で名物伊勢ウドン「外は暖かいかな?」
12・50(中村)薄味肉ウドンとご飯を自室で。食慾おう盛
19・23(中原)「じゃあ、やりましょうか」“麻雀部屋”へ
20・10(中村)週刊誌取材「今夜はインタビューだけかな」
21・45(中村)「ここへ来て風呂入るの初めて」と大浴場へ
『スポーツニッポン』1986/2/5
第6局第1日
08・05(中村)食堂で富士を背に着席し「しまった」
08・25(中原)ハムエッグ食べながら「豪快ですね」富士の眺めにウットリ
12・45(中原)天ぷらそばとオレンジのデザートをペロリ
12・45(中村)昼食は自室でゆかたに着替えて天ぷらそば
『スポーツニッポン』1986/3/14
第6局第2日
07・25(中原)目覚ましブザーで起床
08・42(中村)取材の電話で起こされ「え?いま何時?」
08・54(中村)ゆう然と対局室へ
09・05(中村)うまそうに“心づくし”のコーヒー飲む
10・00(中村)お次はチーズケーキとホットミルク
10・25(中原)メガネはずして、しばし黙祷?
20・30(中村)笑顔で打ち上げパーティーへ
20・45(中原)「じゃあ、やりましょうか」と娯楽室へ、最後の晩ももちろん麻雀
『スポーツニッポン』1986/3/15
将棋世界1947年2月号
將棋放談 中島富治
升田参加の問題
最近大阪新夕刊の木村升田の平香五番勝負で 升田が、香、平、平と三番連勝して、折角の催うしも一方的に終つた。。しかも壓倒的な勝ち振りで,流石の木村も顔を上げることも出来なかつたと、眞僞は知らぬが、對局を見た人の話である。なるほど棋譜を見れば、第一、二局の如きは段違いの感さえ起こるほどの將棋であつた。流石に棋界最大の通人黒崎貞次郎君の企畫丈けあつて、文字通り圖星を刺したのである。ために大阪棋界、否全關西では鼎の湧くような大人氣を巻き起こした。
この異變ははしなくも棋界に厄介な問題を惹起した。名人戦獨占の毎日新聞が大成會に對して、不日行わるべき名人位挑戰者を決定する決勝戰―萩原、塚田、大野の決勝―に升田を参加せしむべきことを要求し来たつたのである。大成會は之れを拒否するに決したようであるがこの毎日新聞の要求は、理論的には一顧の價もないものあるは言を要しない處である。それを百も承知の上で提言して居るのである。關西棋界の聲を代表して申入れたものである。理論はどうあろうと稀世の達人、十年名人位を護つて會つて微動もしなかつたと言われる名人を三番續けて,破つた現賓をよそに,外で名人位と賭けた棋戰が、升田を入れずに行われることは、いかにも不本意な、割り切れぬ思いのすることあるは之れ叉言を要せぎる處である。いかに厳格な法律や制度と雖も動かし難き現實の前には其の効力を發揮し得ない今の世の中であつて見れば規定や約束一本槍で之れを拒否することも仲々しにくいことであろう。新聞社の要求する、三人の決戰に加えて四人の決戰とすることは、規定により實力第七位の升田が第一位を爭う三人も同じ順位におかるヽわけで、三人の候補者は勿論、第四、第五、第六位の三人に於ても容易に承認し難い處であろう。木村は升田に敗ぶれたりとも、彼等は一局をも敗ぶれて居ないのであるから、之れは當然すぎるほど當然な申分である。然らば更めて、七人の決勝戰を行うか、之れは折角力闘して第一位を爭うに至れる三人が下位のものと同じ状態に還元せらるヽわけであつて、之れ又容易に承認し得ない處であろう。大成會の拒否も勿論、この理由によるであろうが、さりとて之れほど人氣の立つた升田を、そのまヽにして名人戰を行つて済むものでもあるまい
時事新報1947/9/29 石山賢吉升田八段が病気のため対局できず、その結果不戦敗になりかけるのである。この時時事新報は大成会と升田八段・大山七段の順位戦の将棋を掲載する契約をしており、棋譜がないと新聞社としては困る、ただし規定は規定、という厄介なことになってしまった。
"升田君病氣"
升田君、三戦三勝、非常に優勢である。残るは、木村、花田。大野、加藤の四棋士。この内、木村、大野の両君が大阪へ対局に出張した。升田君が病氣で対局が出来なく、両君は空しく帰つて來た。こういう場合、不戦勝になるのが大成会の規定である。よつて、不戦勝の議がある。しかし、そうされてはわれわれ新聞社の方が困る。今回の順位戦では先手、後手、二番指すことになつている。もし最初の方が不戦勝にきまれば、後の方を本紙上に掲載する。
時事新報1947/11/4 石山賢吉結局この問題は解決に2ヶ月かかり、最終的に「連絡に不備のところがあった」という事で不戦敗にはならず、改めて指される事になった。
アト、加藤、木村、大野の三局であるが、対加藤戦は既に終り、木村、大野が不戦敗と決すれば、これで本年度順位戦の第一回を終つたわけである。だが、まだ木村、大野戦が不戦敗と決したわけではない。
時事新報1947/11/24 石山賢吉
木村、大野の升田八段に対する不戦勝問題は連絡に不備のところがあつたので、否決された。
第二期順位戦の開始に先だって、つぎのように規約の改正を見た。つまり、A級の1,2,3位にB級優勝者を加えた4人で名人挑戦者決定戦を行う、というものだ。
(一)A級を十名とする(総当り先、後二局宛)
(二)B級を二十名とする(各十二局)
(三)C級を二分し、上位二十名を一組、下位を二組とする(東、西二組に分け各十二局)
(中略)
A級は八名の先後二局宛のリーグ戦で、優勝者は前年度十二勝二敗と、抜群の好成績をあげてA級入りをした升田新八段で、前例に従うと塚田名人への晴れの挑戦者というわけだが、本年度からA級優勝者即挑戦者ではなく、A級1、2、3位にB級優勝者を加えた四名で、名人挑戦権をあらそうよう規約が改正されたのである。
「将棋五十年」 菅谷北斗星 時事通信社 1965
将棋世界1948年2月号中島富治の説明とそれに伴う成績の整理では、B級優勝の大山が名人挑戦者決定戦に進出しない可能性も触れられている。将棋五十年の記述とは異なるのである。
將棋放談 順位戦總まくり
中島富治
今度の名人挑戦者は第一位から四位迄の四人が下から順次に三番戰を行つて最後の勝者を之れに當てるのであるが、第一位は簡單に升田ときまり、次で花田が九勝五敗で合格。あと二人を八勝五敗の大野と土居、六勝六敗の木村、B級からA級に突入する大山との二局を繞ぐつて噛み合つて居る。將棋よりも面白い局面を呈して居る。合格の公算は大山に大きく大野土居之れに次ぎ木村に小さい。
A級戰の現状
順位決定戰の白眉、名人位挑戦権を廻る爭いは「木村、大野戰」「木村、土居戰」を餘すのみとなりました。殊にB級の優勝大山七段(十一勝一敗)のA級に於ける街當成績が九勝五敗と八勝六敗の中間に當るだけに、この二局の勝敗が二位より四位を決定する上に重大な影響を及ぼします。
(1) 木村前名人が双方に勝つた場合
第二位 花田八段(九勝五敗)
第三位 大山七段(九勝五敗と八勝五敗の中間にあるため)
第四位 木村前名人(八勝六敗)
大野、土居両八段も八勝六敗でありますが、前年度の順位が響き上位者優先となります(木村氏は前年度A級第一位)
(2) 木村前名人が双方に敗けた場合
第二位 大野八段(九勝五敗)
第三位 土居八段(九勝五敗)
第四位 花田八段(九勝五敗)
(3) 木村前名人が大野に敗け土居に勝つた場合
第二位 大野八段(九勝五敗)
第三位 花田八段(九勝五敗)
第四位 大山七段
(4) 木村前名人が大野に勝ち土居に敗けた場合は(3)の第二位が土居八段に代ります。
サンデー毎日1948/3/21第2期順位戦も、第1期の35点を30点に修正した上での持点制度だったようだ。
名人位揺ぐか
樋口金信
第六期名人位決定戦ではB級なるが故に、第一位の升田八段(当時七段)は挑戦者になり得なかった、ところが、今回はB級でも挑戦者になり得るチャンスが與えられたことだ。
即ちB級者は一局三十点(勝者百二十点、負者二十点)を減じた得点によりA級の第四位までに入りうれば、挑戦者となれる。
ベスト・フォアによつて改めて下位者から漸次三番勝敗を行つて改めて挑戦者を決める新制度が設けられていることに注目したい。
十一勝一敗の大山七段の驚異的B級での戦績も減点の結果、A級の五敗者には得点で及ばぬ、この下位に甘んじねばならぬ、A級で五敗以下の勝者が出來れば、問題でないA級のみのベスト・フォアが選ばれることになる。
去る一月末、木村前名人と土居八段の一局が木村前名人の勝利となつた結果、第一位升田八段(十二勝二敗)、第二位大野八段(九勝五敗)第三位花田八段(九勝五敗)第四位大山七段(B級十一勝一敗)第五位土居八段(八勝六敗)によつて辛くも大山七段の加入が許されたことだ。
ただし、漸次、上位者に三番勝負を挑んで勝ち切るためには、大山七段が僅か一ヶ月間に、九局のそれこそ、生命がけの対局をやつて退けねばならぬ事実は、如何に新進棋士といえども体力的に参つてしまう、事実不可能な過酷なものと見られた。若しや最後に升田、大山の顔合せとなれば、勝敗は五分と五分、伯仲の間にあると断言して憚らぬが、その途中で大山七段の落伍が必然と見られた。
幸といおうか、第三位の花田八段が病気のため棄権となり、●(註・潰れて読めず)に第二位大野八段と第四位の大山八段(原文ママ)の顔合わせとなり勝者が直ぐ、第一位の升田八段と優勝戦を交える大山七段にとつては、何もかも誂え向きの好條件となつた。
順位 | 名前 | 段位 | 勝 | 敗 | 得点 |
1 | 升田幸三 | 八段 | 12 | 2 | 105 |
2 | 大野源一 | 八段 | 9 | 5 | 84 |
3 | 大山康晴 | 八段 | 11 | 1 | 81 |
4 | 土居市太郎 | 八段 | 8 | 6 | 77 |
5 | 丸田祐三 | 八段 | 10 | 2 | 73 |
6 | 木村義雄 | 前名人 | 7 | 7 | 70 |
7 | 加藤治郎 | 八段 | 7 | 7 | 70 |
8 | 北楯修哉 | 八段 | 9 | 3 | 65 |
9 | 萩原淳 | 八段 | 3 | 10 | 40 |
10 | 松田辰雄 | 八段 | 8 | 4 | 56 |
休場 | 坂口允彦 | 八段 | - | - | - |
A級昇格は最初三名と豫定されていたが、その後、花田八段の逝去により松田(辰)八段が補充されたものである。松田八段は花田八段の逝去に伴い補充されたので、最後尾についたようである。
なお、平均点の加算は前年の三十五点が改正されて三十点となった。
「将棋五十年」 菅谷北斗星
将棋世界1947年10月号この時の変更は、将棋五十年の記述にほぼ沿うものである。
順位戦非常措置
日本将棋連盟では當面の經濟的苦境に對面し、順位戦の對局數を減じ各棋士の負擔を輕くすると同時に連盟の厖大な對局費用旅費の輕減を計るべく、輕営協議會の賛意を得て、次の如く決定發表した。
一、B級以下各棋士の對局數を一人十二局にて打切る。
二、原則として本年度の降級は行はず成績優秀者のみ若千名の昇級を行う。
三、來年度は本年度の成績を基準として新たなる構想のもとに順位制度の確率を期す。
四、現在決定しある對局以外の手合方法は抽籤により決定す、右によりA級は従前通り一人十四局、B級は一人十二局C級は一人十二局局を限度として對局を打切ることとなつた。元来B級C級共に一人十六局の總當り戰を建前として發足した順位決定戰であるだけにこの非常措置は幾多の矛盾、不公平を生ずるが、豹變する社會情勢に對應し棋士の生活面、連盟會の經濟状態を改善し棋界百年の計を樹てるためには眞にやむを得ざる措置であらう。
熊本日日新聞1954/1/16
南口繁一
新年早々満十四歳に成つた加藤は「一生懸命やつて来期順位戦に出場します」と新年の希望を素直に語る。
連盟の規約で、その年の八月までに四段に昇段すれば、その年度の順位戦、王将戦、九段戦も出場でき、王将、九段も勝てば獲得できるというわけなのである。
日東新聞1953/8/6
太期喬也
将棋連盟の塾生をしていた北村少年(十八歳)が四段になった。去月二十四日、昇段が確認され、奨励会と塾生を卒業して世田谷区の某アパートに居を移して独立した。