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5月19日より、国立国会図書館デジタルコレクションの「個人向けデジタル化資料送信サービス」が開始された。
将棋雑誌については、
『
将棋月報』
『
将棋評論』
『
王将』
『
将棋とチェス』
『
近代将棋』(2000年まで)
の5誌が、欠号分を除いて閲覧できるようになった。
図書館では時間に追われるためゆっくり読む時間がなかったのだが、自宅で丁寧に閲覧できるようになったのは非常に嬉しい。
早速ひとつ分かったことがあるので、少し紹介したい。
(以下引用文の旧字は新字に直します)
5誌の中で個人的に最も目を引くのが、『
将棋とチェス』である。
創刊号は"
Japanese periodicals of the Occupation period, 1945-1952"を通じて憲政資料室で閲覧できるが、巻頭に
将棋連盟幹部諸氏の新時代に適応した諸政策が、この困難な時代によく棋界の黄金時代を招来した原因であつて、深く敬意を表する。本誌はこの新しい棋界のより良き発展の一助たるべく発足したものであつて、旧套を葉て時代の新感覚を追求して、将棋の永遠の前進向上に貢献せんことを使命とする。
終戦の齎らした多くのことの一つにチェスの流行がある。チェスは将棋とその先祖を同じくし、兄弟の関係にある。最も近いゲームであるが、従来は比較的我国には普及を見なかつた。
戦後の世界チエス界は将棋と同様空前の隆盛振りで就中、米国、ソ連のチエス熱は凄まじい。日本チェス界も次第に有力となり近く日米対抗試合の学もある由て、その国際的進出も単に時機の問題と思われる。
本誌はこゝに着目し、チエスの普及をその使命の一つと考え之を取上けることとした。
創刊の辭に代えて『将棋とチェス』創刊號
とあり、将棋だけでなくチェスの普及も考えて発刊された雑誌であることがわかる。
大変面白い雑誌で、例えば『アサヒグラフ』の企画で升田幸三が背広姿でチェスを指している姿が掲載されている(『
将棋とチェス』1950年2月号)など資料として貴重なものも少なくないが、読んでいて気になる記述を見つけた。
A級を含めた順位戦の消費時間を、チェスクロック方式で記録していたというものだ。
順位戦の機構は欠陥の多いもので、いろ/\改革が叫ばれて来た。将連当局もよく之を知つて之が画期的な改革を思い立ち将棋新聞紙上に発表した。その骨子は凡そ次の通りであつた
一、BC級の対局を倍加して各八局とする。
二、時間記録方法を改めてチエス時計を使用し、一分間以内切捨を発する従つて持時間を一時間増して八時間とする
中島富治「将棋夜話(その三)」『将棋とチェス』1949年8月号
この後に続く三・四の項は異議があり撤回されたとのことだが、一・二は採用されたとのことである。
本当に第4期順位戦はチェスクロック方式で行われたのだろうか。
別の雑誌を見てみると、『将棋評論』にも記述があった。
今期順位戦は持時間を八時間と一時間の延長をしたがチエスオクロツクを使用するため一秒と雖も持時間の消費として計算されるので従来の一分将棋はなくなり終盤の指し手に要する時間を考慮して置かねばならない
順位戦新編成『将棋評論』1949年8月号
やはりチェスクロック方式が採用されたようで、8時間切れ負けとして運用される手筈となっている。
それでは、実際に棋譜を見てみよう。
『王将』では、塚田正夫前名人が自戦記を4局掲載している。
まず、『王将』1949年10月号の「
私の順位戰(一)」 では、確かに持時間が各8時間である。
個別の指し手の消費時間はなく、開始時間と終了時間だけが記載されている。
この北楯戦の対局日は、6月30日である。
続いて『王将』1949年11月号の「
私の順位戰(二)」も持時間は各8時間である。
が、個別の指し手に消費時間がついている。チェスクロック方式だとするとやや不可解である。
この原田戦の対局日は、8月12日である。
そして『王将』1949年12月号の「
私の順位戰(三)」になると、持時間は各7時間30分になっている。
こちらにも、個別の指し手に消費時間がついている。
この五十嵐戦の対局日は9月10日である。
最後に『王将』1950年1月号の「
私の順位戰 終盤の力闘(四)」を読むと、持時間は7時間に戻っている。
完全に第3期以前と同じように対局しているように感じる。
この升田戦の対局日は不明だが、第五局とある。
五十嵐戦後に順位戦が一局あり、その後升田と指したようである。
持時間が各8時間になった時期があることは間違いなく、6月頃はチェスクロック方式で指されたと思われるが、持時間の変遷や消費時間の記載などを考えるとチェスクロック方式が継続されていたとは考えづらい。
という訳で改めて『将棋とチェス』を見てみると、次のような記述があった。
日本将棋連盟は昨年の順位戦ではじめてチエスクロツクを採用したが、終盤最後の緊要時に支障ありとして、最後の一分間となつてからは従来通り一分未満切捨制を再用(原文ママ)した。そのうちチエスクロツクの故障続出などによつて一先づ之れが使用を廃して旧制に復して仕舞つた。時計の故障はいたし方もないがその他の理由は首肯し難い。チエスクロツクは将連がはじめて使用するのではない。チエスでは世界各国悉く之れを使用して居る。不慣れのための欠陥は慣れることによつて解消すべきである。チエスクロツク使用の効果は大きい。進んで之れを取り入れることを希望してやまぬ。
中島富治「将棋夜話(その九)」『将棋とチェス』1950年2月号
なるほど。確かにチェスクロック方式は採用されたようであるが、結局廃止になったようである。
時代から考えて、時計の故障は仕方がないと思われる。
早すぎた制度だったと言えよう。
整理しよう。
・第4期順位戦は、
「持時間8時間チェスクロック方式切れ負け」というルールで発表された。
・しかし、最終的には切れ負けではなく、現在のルールに合わせて表記すると
「持時間各7時間59分(チェスクロック使用)切れたら一手60秒未満」
というルールで運用された。
・始まってみると、チェスクロックの故障が続出してスムーズな運用ができなかった。
・その結果ストップウォッチ形式に戻ることになり、持時間も8時間から7時間30分、7時間と漸次変更された。
・第5期以降は、第3期以前と同じく
「持時間各7時間」で指された。
という流れになる。
近年はチェスクロックを採用する公式棋戦が増えている。
第81期順位戦においても、B級1組でチェスクロックが使用されることが発表された。
そんななか、将棋界におけるチェスクロック方式採用の原点として、73年前の試行錯誤に思いを馳せてみるのも面白いのではないだろうか。