数々の最年少記録を塗り替えていく藤井聡太六段が、抜く事ができない記録がある。
加藤一二三九段による最年少A級記録である。
加藤一二三九段は8月に昇段したのにも関わらずその期の順位戦に参加しているからであるが、なぜ8月昇段で順位戦に参加できたのかを調べてみた。
いや、正確に言うと他の調べ物をしていたら引っ掛かってきた。
熊本日日新聞1954/1/16
南口繁一
新年早々満十四歳に成つた加藤は「一生懸命やつて来期順位戦に出場します」と新年の希望を素直に語る。
連盟の規約で、その年の八月までに四段に昇段すれば、その年度の順位戦、王将戦、九段戦も出場でき、王将、九段も勝てば獲得できるというわけなのである。
1954年1月の時点で連盟の規約で「8月までの昇段で順位戦に参加できる」と定められていたようだ。
そうなると次は、いつこの規定ができたかという話になる。
別件でサンデー毎日を調べていた時に、1953/9/13号にこんな記事を見つけた。
小さな記事であるが、当時天才少年として名高かった北村昌男新四段が昇段した時に、4月以降であっても順位戦に参加できるように変更された事が確認できる。
日東新聞1953/8/6
太期喬也
将棋連盟の塾生をしていた北村少年(十八歳)が四段になった。去月二十四日、昇段が確認され、奨励会と塾生を卒業して世田谷区の某アパートに居を移して独立した。
別の観戦記によると、北村昌男四段は7/24に昇段しているので、7/24から8月一杯までの間に順位戦に参加できるように規約が変更され、その結果8月までの昇段で順位戦参加が可能になったという流れと思われる。
この規約はどうやら翌年度には変更されていて、5/19昇段の有吉道夫新四段は順位戦に参加しているが、6/19昇段の長谷部久雄新四段は順位戦に参加していない。
この理由は全くわからない。更にその翌年には予備クラスが設けられて新四段が制限された事を考えると、北村四段や加藤四段が中途で参加してかつすぐ昇段していった事や、増える新四段に大して反発があったように思える。
実際はどうだったのだろうか。
この件でポイントだと思うのは、加藤新四段自身が昇段した事によってルールが作られた訳ではない事である。
北村新四段のために規約が改正された際13才の加藤一二三少年の事も考慮されていたであろうし、仮に北村昌男三段の昇段が遅れても、加藤一二三四段のために規約が改正されたとは思う。
しかし、あくまで当時の規定に沿って8月までに昇段しギリギリ順位戦に参加し、そのまま昇級昇段の階段を登っていった所が、天才の前に道が開いていくような感覚を覚える。
藤井聡太六段が今の規定で順位戦昇級→朝日杯優勝と六段になり、竜王戦連続昇級で七段になるかもしれない所まできているように。
2017年からの藤井聡太六段が時代に選ばれたかのごとく快進撃を続けているが、1954年からの加藤一二三四段も、確かに時代に選ばれた棋士であったのだ。