忍者ブログ

将棋棋士の食事とおやつ出張所

大山康晴十五世名人の一般棋戦優勝回数について

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

大山康晴十五世名人の一般棋戦優勝回数について

(初出『将棋ペン倶楽部通信』53号。なお、日付や棋戦進行のリンクなど一部に修正を施した)

 2019年3月に放送されたNHK杯戦において羽生善治九段が優勝し、大山康晴十五世名人の一般棋戦優勝回数を抜いたと発表された。大山名人の記録は44回で、45回優勝した羽生九段がそれを抜き最多記録になったというものだ。しかし、羽生九段は本当に大山名人の記録を抜いたのだろうか。それを考えるのが本項の目的である。
 まず、大山名人の44回優勝の内訳を確認したい。大山名人の著書『棋風堂堂』の中で、「百回優勝記念祝賀会」について触れられた際、記録の内訳も書かれている。

    名人戦 十八期
    王将戦 十七期
    王位戦 十二期
    棋聖戦 十一期
    十段戦 八期
    九段戦 六期
    王座戦 七回
    NHK杯戦 六回
    早指し王位戦 四回
    名人A級勝抜戦 四回
    東京新聞杯戦 二回
    早指し選手権戦 二回
    産経杯争奪戦 一回
    全八段戦 一回
    将棋連盟杯戦 一回[1]
(単位が回数のものが一般棋戦。初期の王座戦は一般棋戦だった)
 
 百回優勝の内、一般棋戦優勝は28回である。その後優勝4回の記録漏れがあったとの事で修正されるが[2]、その内容は、『将棋年鑑』での塚田正夫名誉十段の優勝回数も二回増えた事から[3]、読売新聞社の全日本選手権における名人九段戦と思われる。大山名人はその後も一般棋戦を12回優勝し、合わせて44回優勝した勘定である。
 しかし、昭和20年代の新聞観戦記を読む限り、大山名人はあと3回優勝していて、その記録が漏れていると思われる。これから、その3回を個別に説明していく。なお、一般棋戦優勝かどうかを判断するには、「その棋戦が公式戦か」「当時棋戦優勝として扱われていたか」の二点を満たす必要があると思われる。前者に関しては、『大山康晴全集』[4]と大山名人の年度別成績[5]を確認する限り公式戦であるので、ここでは「当時棋戦優勝として扱われていたか」だけを見ていきたい。
 まず、昭和23年度に行われた夕刊四社連合(夕刊北海タイムス・フクニチ・名古屋タイムズ・夕刊ニイガタ)の棋戦から。掲載紙によって名称が違うのだが、『将棋新聞』[6]で「最強棋士選抜大棋戦」と書かれている事もあり、後述する近代将棋史年表で書かれる「最強者選抜戦」をここでは採用する。
「最強者選抜戦」は、大山八段が丸田祐三八段・松田茂行七段との三番勝負に勝ち優勝し、塚田名人と記念対局を行ったというものである(棋戦進行は将棋棋士成績DBから)。
 現在の目線で見ると、三番勝負で二棋士に勝っただけで棋戦優勝というのは釈然としない所がある。しかし当時は、棋戦優勝すると名人との記念対局を行える、というのが基本的なルール「最強者選抜戦」の前に夕刊社連合が行った八名によるトーナメントに優勝したのは花村元司六段だが、花村六段も塚田名人と記念対局を行っている。近代将棋史年表も、当時の認識に沿って

  夕刊四社の『最強者選抜戦』に大山康晴八段優勝。これを記念して塚田正夫名人―大山康晴八段の特別対局おこなわる。[8]
 というように「優勝」という言葉を使っているのであろう。記念対局が行われたのであれば、当時は棋戦優勝だったと考えられる[9]。
 次に、昭和26年に行われた時事新報・大阪新聞の勝抜戦を見る。これも掲載紙によって棋戦名が異なる。『将棋世界』や『将棋新聞』[10]で書かれる「日本最高勝継棋戦」が正式名称であるようにも思えるが、『将棋年鑑』の松下力九段の項目で棋戦優勝として

 24年〔時事勝継戦〕5人抜き[11]
 とあるので、「時事勝継戦」とする。
「時事勝継戦」は、『時事新報』一九五〇年五月一日付から第三回を開始。社告には
 五人抜き優勝者には本社賞が賭けられ次で名人と対戦することになつている[12]
 とあり、五人抜きが優勝扱いである事が分かる。大山九段は十五回に登場。病気で一旦休むが、復帰後四人抜いて合わせて五人抜き、松下七段に負けて退場した(棋戦進行は将棋棋士成績DBから)。木村義雄名人との記念対局は1951年6月17日に行われ、名人と九段の対局となった事もあり、六月十八日付の『時事新報』では対局写真入りで報じた。

 塚田前名人、原田、南口、丸田各八段、小堀七段に連勝して連盟規程により名人との対局の資格を得た大山九段と木村対升田名人戦に升田を降して第十期名人位を確保した木村名人との対局[13]
 五人抜きを優勝として名人と記念対局を行うのは、連盟規程であったようだ。
 実際に、松下九段の「時事勝継戦」の五人抜きは優勝扱いになっている。『将棋年鑑』では優勝年を昭和24年としているが、24年の「時事勝継戦」では、松下七段は一人抜いて敗退しているので誤り。実は松下七段が本当に五人抜いたのはこの26年の方で、大山九段に勝利した後、その勢いで五人抜いている(棋戦進行は将棋棋士成績DBから)。
 つまり、同一の棋戦で同じように勝利しているのに、大山名人の方は棋戦優勝に含まれていない。当時の規程では優勝扱いであるので、大山名人の棋戦優勝が漏れてしまっている事になる。
 最後は、昭和三十年の同じく時事新報・大阪新聞の勝抜戦、「東西対抗勝継戦」である。
 第四回の「東西対抗勝継戦」は『時事新報』1954年3月13日付より掲載が始まるが、最初の観戦記でこう紹介される。

 今回は、出場棋士も名人を加えて四十一名という豪華版。名人は、東軍西軍いずれかゞ勝利を占めたとき、負けた側に出場して勝継戦に参加するという新らしい方式が採用された。[14]
 第三回までは、名人は五人抜き優勝者と記念対局をする形であった。しかし、この回は名人も一人の棋士として出場するように規程が変わっている。そして実際に、西軍が勝利した後に名人が登場する事となった。
  第四回東西対抗勝継戦は、花村(勝)丸田戦を以て西軍に凱歌が挙つた。五人抜きは熊谷ひとり、四人抜きは北村(秀)ただ一人で、いずれも西軍であつた。
(中略)
 西軍の勝利で花村、坂口、広津、板谷、大野が残り、規程によつて大山名人がここに登場することとなつた。花村が対局過多のため坂口が第一戦に出たが、三月二十日名人まず勝星をあげた。千日手でその指直しを同日強行するという気合の入れ方であつた。名人の五人抜き成るか?[15]
 「規程により」と書かれている事、「五人抜き成るか?」と五人抜きに触れられている事から、名人が記念対局をするのではなく、第四回開始時の方式が変わる事なく、通常の勝継戦方式で名人が参加した事が分かる。
 そしてこの「東西対抗勝継戦」において、大山名人は五人抜きを達成した(棋戦進行は将棋棋士成績DBから)。『時事新報』では、対局翌日に記事にして、大山名人の五人抜き達成を祝している。

  本社主催特別模範勝継戦の大山名人対大野八段戦は一日午前十時から東京中野の日本将棋連盟で行われ同日午後三時卅分八十八手で大山名人が勝つた。これで名人は、坂口、板谷、花村各八段、広津七段、大野八段を連覇、五人抜きをした。[16] 
 この五人抜きに賞金が出た事も観戦記で触れられており[17]、規程や取り上げられ方、そして実際に賞金が出ている事を合わせて考えると、棋戦優勝としての条件は揃っている。また、第四回は熊谷達人七段の五人抜きが棋戦優勝としてカウントされており[18]、西軍の熊谷七段の五人抜きを棋戦優勝とするのであれば、東軍として参加した大山名人も棋戦優勝とするのが自然である。
 こうして見てきた通り、「最強者選抜戦」・第三回「時事勝継戦」・第四回「東西対抗勝継戦」は、それぞれ当時棋戦優勝として扱われており、大山名人の一般棋戦優勝に加算されるものであると考えられる。よって、大山名人の一般棋戦優勝回数は合わせて47回であり、羽生九段はまだその記録を抜いていないというのが本項での結論である。
 なお、一般棋戦優勝回数の漏れは、大山名人に限った話ではない。「時事勝継戦」だけを見ても、第一回から第二回にかけての松田辰雄八段が九人抜き、第二回の京須行男七段が五人抜き、第三回の高島一岐代八段が五人抜きをしているが、優勝回数に含まれておらず、記録に不整合な面が見られる[19]。
 棋譜が保存されていない期間については調査が難しい事は重々承知の上であえて言わせていただければ、日本将棋連盟には改めて成績を調査していただき、より確からしい記録をまとめていただけないだろうか。より確からしい記録をまとめる事が、過去の棋士はもちろん、現代の棋士を正しく評価する事にも繋がるのだから。



[1] 大山康晴『棋風堂堂』PHP研究所、一九九二、一五二―一五三頁より、優勝回数部分を抜き出したもの。
[2] 天狗太郎『文藝春秋』一九七六年三月号、三二八頁
[3] 『昭和51年版将棋年鑑』では「ほか優勝2回」であったが、『昭和52年版将棋年鑑』より「ほか優勝4回」となる。
[4] 大山康晴『大山康晴全集第一巻』毎日コミュニケーションズ、一九九一、「全成績」の二七八―二八一頁
[5] 『将棋世界』二〇一五年二月号、五七頁
[6] 『将棋新聞』二十二号、「新聞將棋の展望」
[8] 『将棋世界』一九八一年四月号、一一〇頁
[9] 『夕刊ニイガタ』では、それまで棋戦名を「最強棋士選抜大棋戦」としていたものを、記念対局では「最強棋士決定大山八段名人挑戦譜」と変えている。優勝した事を「決定」という表記で表したのだろうか。
[10] 『将棋世界』一九五一年二月号、『将棋新聞』十五号など。
[11] 『昭和55年版将棋年鑑』日本将棋連盟、一九八一、三二四頁
[12] 『時事新報』一九五〇年四月二六日
[13] 『時事新報』一九五一年六月十八日
[14] 歩三坊『時事新報』一九五四年三月十三日
[15] K『将棋世界』一九五五年五月号、六八頁
[16] 『時事新報』一九五五年七月二日「大山遂に五人抜き 特別模範勝継戦」
[17]歩三坊『時事新報』一九五五年五月二日
[18] 『昭和56年版将棋年鑑』までは「29年東西勝継戦で6人抜き」とあり連勝数が正確には違うのだが、『昭和57年版将棋年鑑』で「優勝1回」と変わり、東西対抗勝継戦の五人抜きが優勝1回となっている。
[19] この三名は、名人との記念対局をそれぞれ行っている事も考えると、松下九段と同様に優勝回数に加算されるべきものである。
PR

コメント

プロフィール

HN:
おがちゃん
性別:
男性
自己紹介:
将棋棋士の食事とおやつに関する話だったが、将棋考古学沼ネタもこちらで。

P R