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将棋界や、棋士の側面、あるいは素顔が、この方々によってどのように語り継がれるかというテーマで毎号愛棋家を紹介していた「将棋万華鏡」という連載の9回目に、越智が選ばれた。
『近代将棋』1976年1月号
「まだ情景的な記録が欠けていると思います。対局中に後架(はばかり)に立つ回数とか、後架に行った次手に、他の対局をのぞいていて自席に帰ってこない棋士とか、詰みもしないのに詰んだと大声を上げる棋士とか、競馬新聞を読みながらなのに負かされた棋士とか、まだまだあると思うんですね。もっとも、こうした情景は、観戦記者の仕事かとも思うのですが、まだこれを記録として残すまでには行ってない。たいへん煩雑な仕事ですが、やってやれないことはないと思うのですよ」観戦記等を読みながら棋士の食事の記述を抜き出して将棋めしとしてまとめる、という不毛な作業を日々しているのであるが、記録の権威である越智のこの話を聞いてホッとした。
――たしかにこれは面白いし、記録の新機軸かもしれないが、こうしたことを記録された棋士はどういうことになりますか。プライバシーの問題も起きかねない――
「しかし、これらの現象が、対局者の真の姿なら、記録にとどめて永く子孫末代まで残さずばなりますまい」
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号
国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)
「それから、対局中に放屁をした棋士もいたんですね町田も「記録も、ここまでくれば、極限に達したというべきだろう。」と絶句しているのだが、
(中略)
だが放屁も一人の棋士がたまたまやったということではなくて、対局中にも放屁をするということを記録したいわけなんです」
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号
国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)
たゞありのまゝ描寫するといつても、汚たない話が、ある棋士が對局中、思はず放屁したとしたら、そのまゝ書いては愛嬌がない。これを神韻縹渺と描寫してこそ觀戰記の役目を果たすのではないだらうか、それでなければ全然黙殺すべきである。要するに、觀戰記は、小説の作法と同じくその取捨選擇が重要であつて、そこに主觀が作用して來る。観戦記に放屁の話を書くなら、そこに意味があるようにしなければならないとしたものである。
(中略)
必要以上に誇張した場合ならいざ知らず、將棋に關する限り、八段の諸先生は、時にたしかに英雄であり、神に近いであらう。ただその他の面が常人に劣るところありとして、かやうな人を英雄扱ひするのを苦しいといふのはどうかと思ふ。これを要するに、觀戰記も一種の大衆文學である。從つて面白く樂しく讀ませしかも將棋そのものゝ本道から離れないならば最上の出來といふべきであう。自嘲、懐疑は、要らざる心配であると考へる。「面白く樂しく」といふ、この「樂しく」は絶對に缺くべからざる條件であつて、面白いが、なんか嫌悪な感じのする文章であつたり、表現であつては効果をぐつと下げてしまふ。讀者は常に心に幻想を描いて棋士を考へてゐる。
黒崎貞治郎「將棋人國記」『将棋世界』1939年11月号
放屁なんてものは、およそ緊張した精神状態では発し得ないと思うのです。したがって精神が遅緩したときに限られていると見ていいでしょう。と、将棋の勝敗を結びつけながら放屁を論じている。
だから、対局者が遅緩した精神状態ということになると、概して勝局いや、敗局が一転して勝ち運がこちらに向いてきたときなど、ではないか。ホッとしたとたんに、ブウーということになったんではないかと思うのです
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号
国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)
フアンの通有性として、自分たちの目標とするもののゴシップであろうとして、将棋の記事を書く時にゴシップを取り入れることを心がけていた。
菅谷北斗星「將棋の記事に就いて」『綜合ヂャーナリズム講座』第五巻、内外社、1931年
国会図書館デジタルコレクション、綜合ヂャーナリズム講座. V
将棋の本が技術の向上とか、入門書の類が主なのは当然ですけれど、将棋そのもののバックグランドを取り上げて書かれたものがあっても、と思います。将棋というのは、「指す」つまり対局が中心であることはゲームとして当然として、将棋を見る、将棋の話を聞く、総じて将棋を楽しむという面を充実させてほしいなと思いますね。強くなろうとするのはひとりでもできることですから。
鴻「棋界功労者インタビュー 読む、見る、聞くを楽しみに(越智信義氏)」
『将棋世界』1987年9月号