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週刊朝日 1937/5/16
坂口允彦解説
後手六五角と打つたのは新手であるが僅々十一分の考慮から見て大和久氏としては豫定の行動でかねて期してゐた一着であらう。ここを普通に二二飛と廻つても先手に三八銀と受けられてゐると後の駒捌きが非常に難しい。一見二四歩、同歩、同金の厭迫も考へられるが實際には二四金の捌き遅く先手の恐れる處ではないのである。
先手の三三角成と後手六五角の二手は共に兩氏日頃の精進の現れでその可否はともあれ絶對の敬意を表する。
横井夢段観戦記
「後手三三角戦法」は金子八段のお家藝で、同八段が自ら「後手作戦の最高峰を行くもの」と折紙づけるだけに、かつてはこの戦術をもつて木村八段を破り、後手として最初の輝かしい勝利ををさめた秘法だ。―と、みる間もなく、加藤君は敢然と三三角成、同金と角の交換に出たので、盤上は忽ち一變、これはまた最新未解決の驚異的手法として、棋界あげて注視の的とする新局面の展開となつた。
今から十七八年も前のこと、東西決裂を前にして、坂田、土居の兩雄が交へた「最後の一戦」にこの局面を招来したのが始めで、研究の結果、後手をして手順に向飛車の好型をつくらしめることによつて、飛先を押し潰される不利があり「先手指悪し」といふ結論に達したため、その後は全く絶えて指す棋士もなかつたものだ。
それを突然、起用したのが花田八段だつた。今春劈頭の「本社全日本選抜大棋戦」で、木村八段を對手に敢行。しかもたまたま「坂田對木村、花田」の決戦實現が發表され、この兩八段が「坂田將棋」の研究に没頭してゐた折柄だつたので、凄まじい注目と話題の渦を惹起した。戦績は花田八段が終盤思ひもよらぬ緩手を指したため木村八段の勝に歸したが、関根名人も「後手としては戒心すべきだが果たして豫想してゐたかどうか?」と講評し、観戦の金子八段は「後手の作戦負け」と断じたものだつた。
この新研究を加藤君がとつて出たあたり、その知識的研究家の面目躍如としてゐるではないか。ところが大和久君も、これに對する應戦法の研究を怠つてゐやうはずがなく「六五角打」の新研究を用意してゐたものだ。
すなはち、花田對木村の場合には、先手八八銀の次ぎ後手は直に二二飛と振り、以下互ひに玉を七筋に移動させてから三八銀、二四歩と二筋の攻防に移り、つづいて七七角打、三三角打と先手は巧に會心の局面に導いてゐるが、大和久君は後手としてこの推移を好まず、二二飛の一手で六五角と「筋違ひ」の角を打つて、一歩の得と遠く二筋の飛頭反撃の掩護を兼ねる手段に出た。そしてその結果は三五歩と占めた上に五五歩の「先手指過ぎ」といふ思ひもよらぬ獲物にありついて、局面をすつかり有利に導いてしまつた。
東京タイムズ1950/1/16この事は、先手が角交換しない事を前提に定跡が作られていった事を示している。
本社特選順位決定戦 板谷四郎七段対萩原淳八段
三猿子
五五歩から六五歩と五、六筋の位を取る戦法は最新流行型の一ツ。原田八段なども好んでもちいる戦法だが、あまり勝率はよくない。 その欠陥として三つを挙げることが出来よう。①玉の囲いが遅れる②伸びすぎに陥る。③新作戦だけに時間を消費する。これに反し敵は型のきまつた將棋だけに指しよいことはいうまでもない
東京タイムズ 1950/6/28ご覧の通り、それまで名人戦等で散発的に指されていたが後手が勝っており、先手に何か対策が必要な状態であった。
本社特選順位決定戦 坂口允彦八段対丸田祐三八段
三猿子
坂口に新手ありや
木村―大山の名人戦第三局目に、木村名人は本局と同様、三三角成、同金の局面に導いている。しかしその時、大山八段は六五角と筋違い角を打たず、五十六分の長考後二二飛と関西が生んだ巨匠坂田創案になる向飛車戦法をとり大山の勝となつた。
また昨年の木村―塚田の名人戦第三局にも、木村はコレと全く同様の局面に導いたが、その時塚田前名人(当時名人)は丸田八段と同様、六五角戦法をもちいて快勝している。
この二つを例にとると、何れも先手番が不利になるといえないこともない。だが、それを百も承知でもちいた坂口八段に何等かの新研究がなくてはならない。
きようの指し手は、筋違い角戦法として当然すぎるほど至当な運びだが、では坂口の新手はいつ現れて來るのだろうか? 明日の紙面を樂しみにして頂きたい。
東京タイムズ 1950/6/29
本社特選順位決定戦 坂口允彦八段対丸田祐三八段
三猿子
四七銀の新手
きのう宿題とした坂口八段の新手とは、四六歩から四七銀の構えがそれ、既往の定跡では大てい五筋の歩を突き進めて、角を圧迫する含みに指すことは、一般の知るところ。
しかし何か、新たな研究があるのであろう。坂口は殊更に五筋を突かず、四筋の歩を突き出し、腰掛銀含みに四七銀と進み出た。 俊敏丸田八段は早くも、敵に秘手のあることを看取したらしく、座り直して盤上に目をそそぐ。そして「成程……」の呟いては、一人で肯きながらの長考である。
やがて「よくわからない」と呟きながら、丸田の手が伸び、二四歩と喧嘩を買つてでた。
将棋世界1950年8月号
順位戦好局集 坂口八段との對局 / 丸田祐三
注文つけた三三角戰法
初手合の後手、それだけに自分から注文をつけずに、對手の策戰に追随してゆくつもりだつたのだが……
(中略)
坂口氏の二六歩を見て、八四歩の豫定だつたが、いざ指そうと思つて隣を見て驚いた。
塚田、五十嵐戰の順位戰對局が、私が少考している間に、二六歩、八四歩、二五歩、八五歩と「スムース」に進み、飛先の歩を御互いに交換した所まで進んでいる。
私は再び考へた。八四歩と突けば坂口氏休場間に流行した角換わり腰掛銀には恐らく來まい。とすると、單なる相懸りとなつて隣合つて同型で指すことは私の意地がこれを許さないどんな形でも悪手さえ指さなければ容易に敗けない。これが私の脳裏をかすめた。その瞬間自ら注文をつける。三二金から三三角と態度を決定していた。
筋違い角を決行
第一圖に於て坂口さんは最初の長考に入つた。此處は三三角成とする手と、穏やかな五六歩又は四八銀等序盤の策戰の岐路である。私は對手の長考中に考へた。角交換から向飛車、これは今迄一局も經驗がない。いやだなと思つていたら案の定三三角成、同金から八八銀と角交換に出られた。私の氣持ちを見透かされた感じで流石と思つた。
今度は私が策戰を決める番、常識的に行つて、二二飛と六五角だが、二二飛形の最近の代表作は、本年度名人戰第三局に大山氏の用ひた戰法。六五角は一昨年名人戰で塚田氏の用ひた戰法で名人戰に縁があつて、何れも後手方が勝つている。
どちらに決定するか迷つたが、二二飛型はあまりに最近すぎるので、意表をつく意味と筋遠角は打たせた方が指易いと私の持論だが此の機會に自分で一度やつておきたかつたので六五角と決行した。
将棋世界2018年5月号と触れているが、これは正確には「相手が筋違い角を打っても、それなりに対抗できることがわかったからだ」とするのが正しいと思われる。
鈴木宏彦
108P
阪田流向かい飛車の真実
昭和25年以降、阪田流向かい飛車は比較的頻繁に指されるようになった。居飛車側の研究が進み、相手に飛車を振られても、それなりに対抗できることがわかったからだ。
将棋戦法大事典プロ2号とは、阪田流向かい飛車筋違い角のこと(プロ1号はノーマルな阪田流向かい飛車)
加藤治郎
265P
「プロ2号」筋違い角の歩得封じの二法▲3八銀(B図)と▲3八金(C図)を紹介したが、このうち▲3八銀は高柳八段(昭和二十三年=当時六段)、▲3八金は二上九段(昭和二十五年=当時四段)がそれぞれ創案した当時の新手である。
"プロ2号筋違い角"は一種の斜陽戦法で最近はほとんどその姿を現していない。
昭和二十五年ごろまでは流行戦法として盛んに戦われたが、高柳式▲3八銀と二上式▲3八金が開発されてからは、急にその勢いが衰えはじめたのである。
昭和 | 年齢 | 段 | 級 | 対局数 | 勝 | 負 | 持将棋 千日手 |
勝率 |
25 | 16 | 初段 | 名古屋より上京,奨励会へ初段として入会 | |||||
26 | 17 | 三段 | 花村元司七段・土居市太郎八段との角落対局 | |||||
27 | 18 | 四段 | CⅡ | 不明 | ||||
28 | 19 | 〃 | 〃 | 不明 | ||||
29 | 20 | 五段 | CⅠ | 21 | 14 | 6 | 持1 | 0.690 |
30 | 21 | 六段 | BⅡ | 26 | 17 | 9 | 0.654 | |
31 | 22 | 〃 | 〃 | 27 | 16 | 11 | 0.593 | |
32 | 23 | 〃 | 〃 | 32 | 19 | 13 | 0.593 | |
33 | 24 | 〃 | 〃 | 32 | 22 | 9 | 千1 | 0.740 |
34 | 25 | 七段 | BⅠ | 42 | 24 | 15 | 千3 | 0.615 |
35 | 26 | 〃 | BⅡ | 31 | 17 | 9 | 千5 | 0.653 |
36 | 27 | 〃 | BⅠ | 35 | 15 | 15 | 千4 持1 |
0.500 |
37 | 28 | 〃 | 〃 | 48 | 28 | 16 | 千4 | 0.636 |
38 | 29 | 〃 | 〃 | 48 | 26 | 13 | 千9 | 0.666 |
39 | 30 | 八段 | A | 46 | 27 | 11 | 千8 | 0.711 |
40 | 31 | 〃 | 〃 | 78 | 43 | 25 | 千11 | 0.641 |
41 | 32 | 〃 | 〃 | 59 | 33 | 16 | 千10 | 0.673 |
42 | 33 | 〃 | 〃 | 67 | 44 | 18 | 千5 | 0.709 |
43 | 34 | 〃 | 〃 | 49 | 30 | 17 | 千2 | 0.638 |
44 | 35 | 〃 | 〃 | 50 | 24 | 23 | 千3 | 0.510 |
45 | 36 | 〃 | 〃 | 10 | 6 | 4 | 0.600 | |
計 | 701 | 405 | 230 | 持2千65 | 0.638 |
將棋春秋1956年10月号 26p若手の頃に棋譜の保存の重要性を説いていた山田九段の遺志を継いで、関係者が没後に棋譜集や著作集を出版しているからだ。
森健一(引用註・山田道美九段のPN)
棋譜の保存
それにつけて、思われるのは、亡くなつた棋士が残した棋譜のことである。
われわれが、棋聖天野宗歩を想う時、伝説や遺文によつてイメージを作る。が、何と云つても、この棋聖の棋聖たるゆえんを知るのは、残された棋譜、すなわち手鑑によつてである。手鑑をひもといて盤に並べてみる時、生きた宗歩の呼吸をじかに感じるのである。
私は、連盟、あるいは死んだ棋士の関係者にお願いしたい。その棋士の生前の棋譜を出来る限り収録して、残しておいて頂きたいのである、出来たら単行本にして出版すれば理想だが、そうでなくとも複写を二ツ三ツ作つて残して頂きたいのである。
それを、木村名人や、花田八段のように、棋界の歴史の本流に呼吸した人のみに限らず支流と思われる人にも実行して頂きたい。支流なくして、本流は存在しないからである。
月日の流れは早い。やがて、一世紀も過ぎ現在が過去になつた時二十一世紀の人は、木村十四世名人を、あるいは花田八段を、あるいは村上八段を知ろうと欲するだろう。その時、残された棋譜がどれ程重要な役目を果すか。想像に難くない
山田道美将棋著作集 第7巻 日記この内、日記で日付が分からないのは九段戦の2局、順位戦の4回戦。対局日が分かって対局相手が分からないのは6/15と6/22の順位戦と8/23のサンデー毎日である。
28年度
十二月三十日(水曜日)
上京して八ヶ月。其の間十八局指した。王将戦二局、一勝一敗。順位戦八局、七勝一敗。サンデー毎日一局、一勝。日東五局、四勝一敗。九段戦二局、二勝となっている。総計十五勝三敗。
将棋精華 九段山田道美手合
追憶
明日は土居先生と、角落で対局が出来る。四段になった記念の対局であるらしい。
思えば多難な三年であった。
去年は、暮近く、四ヶ月の間、人に云われぬ苦労もしたし、将棋の上では、年中苦しみ心配した。
それが、今日、今、昇段祝として、八段の先生と将棋が指せる、幸せの限りである。夢ならば、覚めないようにと思う。
将棋世界1951年12月号この時期の九段戦はC級参加資格が基本的になく、山田四段もエントリーはされていない。
新聞棋戦の動き
なお、次回の九段は機構が改正され、豫選の組合せもこの程成つたが、B級を四組に分ち、本誌C級1組トーナメント戰の決勝戰に殘つた二名が、B級の資格を特別に與えられ豫選トーナメント形式參加が許されることになつた。
将棋世界1953年4月号翌年度の九段戦の予選開始は4月近くまでずれ込んでいて、ここでもエントリーはされていない。つまり、九段戦の不戦敗はない。
引續き新年度の豫選を開始する筈で、近く第一回戦の火蓋が切られる見込み
年度 | 対局日 | 対局相手 | 段位 | 勝敗 | 手番 | 手数 | 期数 | 棋戦名 | 詳細1 | 掲載 |
1951 | 不明 | 土居市太郎 | 八段 | ● | 下手 | 153 | 将棋世界 | お好み対局 | 将棋世界 | |
1952 | 1952/05/12 | 山中和正 | 六段 | ● | 先 | 102 | 第02期 | 王将戦 | 1次予選 | |
1952 | 1952/07/18 | 佐藤豊 | 四段 | ○ | 不 | 第07期 | 順位戦 | 1回戦 | ||
1952 | 1952/08/30 | 西本馨 | 四段 | ○ | 後 | 第07期 | 順位戦 | 2回戦 | ||
1952 | 不明 | 佐藤豊 | 四段 | ■ | 第01期 | 王座戦 | 1次予選 | |||
1952 | 不明 | 増田敏二 | 五段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 角田三男 | 五段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 浅沼一 | 四段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 木川貴一 | 四段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 畝美代吉 | 六段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 野村慶虎 | 六段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 橋本三治 | 四段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 津村常吉 | 四段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 鈴木禎一 | 五段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1952 | 不明 | 平野広吉 | 五段 | ■ | 第07期 | 順位戦 | 不明 | |||
1953 | 1953/06/02 | 平野広吉 | 五段 | ○ | 後 | 第03期 | 王将戦 | 1次予選 | ||
1953 | 1953/06/08 | 萩原淳 | 八段 | ● | 先 | 第03期 | 王将戦 | 1次予選 | ||
1953 | 1953/06/15 | 佐藤豊 | 四段 | ○ | 不 | 第08期 | 順位戦 | 1回戦 | ||
1953 | 1953/06/22 | 津村常吉 | 五段 | ○ | 先 | 103 | 第08期 | 順位戦 | 2回戦 | 将棋精華 |
1953 | 1953/07/06 | 吉田六彦 | 六段 | ○ | 後 | 90 | 第08期 | 順位戦 | 3回戦 | 将棋精華 |
1953 | 1953/08/17 | 芹沢博文 | 二段 | ○ | 後 | 94 | 若獅子杯爭奪戦 | 日東新聞 | ||
1953 | 1953/08/23 | 北村昌男 | 四段 | ○ | 先 | 157 | 鳳雛記念將棋 | サンデー毎日 | ||
1953 | 1953/09/07 | 佐藤庄平 | 三段 | ○ | 後 | 96 | 若獅子杯爭奪戦 | 日東新聞 | ||
1953 | 1953/09/11 | 宮坂幸雄 | 二段 | ○ | 後 | 68 | 若獅子杯爭奪戦 | 日東新聞 | ||
1953 | 1953/09/14 | 鈴木禎一 | 五段 | ○ | 後 | 92 | 第08期 | 順位戦 | 4回戦 | 将棋精華 |
1953 | 1953/09/21 | 浅沼一 | 四段 | ○ | 先 | 71 | 第08期 | 順位戦 | 5回戦 | 将棋精華 |
1953 | 1953/09/24 | 佐藤健伍 | 三段 | ○ | 後 | 96 | 若獅子杯爭奪戦 | 日東新聞 | ||
1953 | 1953/09/28 | 平野広吉 | 五段 | ○ | 不 | 第08期 | 順位戦 | 6回戦 | ||
1953 | 1953/10/03 | 畝美与吉 | 六段 | ● | 先 | 158 | 第08期 | 順位戦 | 7回戦 | 将棋精華 |
1953 | 1953/10/06 | 大友寛二 | 二段 | ● | 後 | 131 | 若獅子杯爭奪戦 | 日東新聞 | ||
1953 | 1953/11/16 | 北村昌男 | 四段 | ○ | 不 | 第08期 | 順位戦 | 8回戦 | ||
1953 | 1953/12/25 | 鈴木禎一 | 五段 | ○ | 不 | 第05期 | 九段戦 | 1次予選 | ||
1953 | 1953/12/27 | 木川貴一 | 五段 | ○ | 不 | 第05期 | 九段戦 | 1次予選 | ||
1953 | 1954/01/14 | 北村昌男 | 四段 | ● | 不 | 第05期 | 九段戦 | 1次予選 | ||
1953 | 1954/01/23 | 野村慶虎 | 六段 | ○ | 後 | 134 | 第08期 | 順位戦 | 9回戦 | 将棋精華 |
1953 | 1954/01/26 | 西本馨 | 四段 | ○ | 後 | 142 | 第08期 | 順位戦 | 10回戦 | 将棋精華 |
1953 | 1954/01/29 | 増田敏二 | 五段 | ○ | 先 | 39 | 第08期 | 順位戦 | 11回戦 | |
1953 | 1954/03/05 | 五十嵐豊一 | 八段 | ● | 先 | 114 | 第04期 | 東西対抗勝継戦 | 時事新報 |
年度 | 年齢 | 段 | 級 | 対局数 | 勝 | 負 | 持将棋 千日手 |
勝率 |
1951 | 17 | 四段 | 1 | 0 | 1 | 0.000 | ||
1952 | 18 | 四段 | CⅡ | 14 | 2 | 12 | 0.142 | |
1953 | 19 | 〃 | 〃 | 23 | 18 | 5 | 0.782 | |
1954 | 20 | 五段 | CⅠ | 21 | 14 | 6 | 持1 | 0.690 |
1955 | 21 | 六段 | BⅡ | 25 | 16 | 9 | 持1 | 0.654 |
1956 | 22 | 〃 | 〃 | 27 | 16 | 11 | 0.593 | |
1957 | 23 | 〃 | 〃 | 32 | 19 | 13 | 0.593 | |
1958 | 24 | 〃 | 〃 | 32 | 22 | 9 | 千1 | 0.740 |
1959 | 25 | 七段 | BⅠ | 42 | 24 | 15 | 千3 | 0.615 |
1960 | 26 | 〃 | BⅡ | 32 | 18 | 9 | 千5 | 0.653 |
1961 | 27 | 〃 | BⅠ | 35 | 15 | 16 | 千3 持1 |
0.500 |
1962 | 28 | 〃 | 〃 | 48 | 28 | 16 | 千4 | 0.636 |
1963 | 29 | 〃 | 〃 | 48 | 25 | 14 | 千9 | 0.666 |
1964 | 30 | 八段 | A | 46 | 27 | 11 | 千8 | 0.711 |
1965 | 31 | 〃 | 〃 | 78 | 43 | 25 | 千11 | 0.641 |
1966 | 32 | 〃 | 〃 | 59 | 32 | 18 | 千9 | 0.673 |
1967 | 33 | 〃 | 〃 | 67 | 44 | 18 | 千5 | 0.709 |
1968 | 34 | 〃 | 〃 | 49 | 30 | 17 | 千2 | 0.638 |
1969 | 35 | 〃 | 〃 | 50 | 24 | 23 | 千3 | 0.510 |
1970 | 36 | 〃 | 〃 | 10 | 6 | 4 | 0.600 | |
計 | 741 | 423 | 252 | 持3千63 | 0.626 |
ひょんな事から棋士の棋戦優勝を調べるという作業にとりかかってしまい、ひとまず公式サイトの棋士データベースと実際の記録を照合する作業を始めていたのであるが、将棋年鑑に棋戦優勝が記載されているのにも関わらず棋士データベースに記載がない例が多々見つかった。
ここでは、将棋年鑑と棋士データベースで差異があるものの一覧をあげる事とする
(なお、将棋年鑑でも優勝記載漏れが多く見つかっているが、集計中であるので今は触れない)
以下棋士番号順
建部和歌夫 ページがそもそもなし
・1935年の全日本選手権の優勝記録がなし
1935年の全日本選手権は東京日日新聞(朝日年鑑では大阪毎日新聞とある)主催の棋戦
萩原淳 ページ
・1941年オール八段戦、及び1949年全日本選手権の優勝記録がなし
1941年のオール八段戦は詳細未確認
1949年の全日本選手権は読売新聞主催の棋戦
松下力 ページ
・1943年朝日番付戦など3回の優勝記録がなし
1943年朝日番付戦は第四回の昭和番付編成将棋(9勝1敗で優勝)
小堀清一 ページ
・1953年AB級選抜戦の優勝記録がなし
1953年のAB級選抜戦の詳細未確認
大山康晴 ページ
・その他の優勝9回記録が未記載
本間爽悦 ページ
・その他の優勝1回記録が未記載
北村秀治郎 ページ
・1947年精鋭トーナメントなど2回優勝記録がなし
1947年の精鋭トーナメントの詳細未確認
神田鎮雄 ページ
・1956年の六・五・四段戦の優勝記録がなし
関屋喜代作 ページ
・1968年古豪新鋭戦の優勝記録がなし
劔持松二 ページ
・1961年東西対抗勝継戦6人抜きの優勝記録がなし
森安秀光 ページ
・勝ち抜き戦5勝以上4回とあるが、第4回の1回のみ
勝ち抜き戦のページで確認できる
以上。
棋士 | 回数 | 連勝数 | 公式サイトDB優勝履歴 | 補記 | 46.47年将棋年鑑記述 |
松田茂行 | 03回 | 5連勝 | その他優勝3回 | 旧回数 | 受賞3回 |
廣津久雄 | 03回 | 6連勝 | その他優勝2回 | 旧回数 | 6人抜き |
升田幸三 | 04回 | 7連勝 | その他優勝2回 | 旧回数 | |
松下力 | 04回 | 12連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 旧回数 | 12人抜き |
高島一岐代 | 03回 | 5連勝 | その他優勝1回 | ||
熊谷達人 | 04回 | 5連勝 | 1954年度優勝なし | 6人抜き | |
大山康晴 | 04回 | 5連勝 | その他優勝9回 | 特別模範勝抜戦連勝 | 受賞4回 |
本間爽悦 | 05回 | 5連勝 | 1955年度優勝なし | 5人抜き | |
松田茂役 | 05回 | 9連勝 | その他優勝3回 | 連勝2度目 | 9人抜きなど受賞3回 |
宮坂幸雄 | 06回 | 5連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 5人抜き | |
大友昇 | 06回 | 14連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 14連勝 | |
丸田祐三 | 08回 | 5連勝 | その他優勝1回 | 5人抜き1回 | |
有吉道夫 | 10回 | 5連勝 | 1960年度優勝なし | 受賞2回 | |
剱持松二 | 11回 | 6連勝 | 1961年度優勝なし | 6人抜き | |
加藤一二三 | 11回 | 6連勝 | その他優勝1回 | 受賞2回 | |
廣津久雄 | 11回 | 6連勝 | その他優勝2回 | 連勝2度目 | 6人抜き |
宮坂幸雄 | 12回 | 6連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 6人抜き | |
山田道美 | 12回 | 8連勝 | その他優勝2回 | ||
花村元司 | 13回 | 6連勝 | その他優勝2回 | 受賞4回 | |
木村義徳 | 14回 | 7連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 7人抜き | |
佐伯昌優 | 14回 | 5連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 6人抜き | |
佐瀬勇次 | 14回 | 5連勝 | 1964年度優勝なし | 5人抜き | |
松田茂役 | 14回 | 6連勝 | その他優勝3回 | 連勝3度目 | 受賞3回 |
加藤一二三 | 14回 | 5連勝 | その他優勝1回 | 受賞2回 | |
米長邦雄 | 15回 | 6連勝 | 1965年度優勝なし | 6人抜き | |
内藤國雄 | 15回 | 15連勝 | 東西対抗勝継戦10勝以上 | 15連勝 | |
二上達也 | 15回 | 7連勝 | その他優勝2回 | 受賞1回 | |
賀集正三 | 16回 | 5連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 5人抜き | |
西村一義 | 16回 | 11連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 1966年度に2度優勝 | 11人抜き |
山田道美 | 16回 | 5連勝 | その他優勝2回 | 連勝2度目 | |
西村一義 | 17回 | 5連勝 | 1967年度優勝なし | 5人抜き |
第四回『東西対抗勝継戦』(大阪新聞、時事新報)で松下力八段が十二人抜き、連勝記録を更新とあり、これを2回引くと公式発表とは回数が合わないように思えるが、松下八段が登場したのは終盤の第三十六局であるので、公式では12連勝を回を改めた第3回での連勝としてカウントしていると思われる。
いまだに棋戦優勝(その他)が大山名人にも加藤一九段にもくっついてるのでそのへんはお察しというかw
— けんゆう (@kenyu9876) 2017年12月14日
棋士 | 回数 | 連勝数 | 優勝履歴 | 補記 |
松田茂役 | 05回 | 9連勝 | その他優勝3回 | |
宮坂幸雄 | 06回 | 5連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | |
大友昇 | 06回 | 14連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | |
丸田祐三 | 08回 | 5連勝 | その他優勝1回 | |
有吉道夫 | 10回 | 5連勝 | 1960年度優勝なし | |
廣津久雄 | 11回 | 6連勝 | その他優勝2回 | |
宮坂幸雄 | 12回 | 6連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | |
山田道美 | 12回 | 8連勝 | その他優勝2回 | |
花村元司 | 13回 | 6連勝 | その他優勝2回 | |
木村義徳 | 14回 | 5連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | |
佐伯昌優 | 14回 | 5連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | |
佐瀬勇次 | 14回 | 5連勝 | 1964年度優勝なし | |
松田茂役 | 14回 | 6連勝 | その他優勝3回 | 連勝2度目 |
加藤一二三 | 14回 | 5連勝 | その他優勝1回 | |
米長邦雄 | 15回 | 6連勝 | 1965年度優勝なし | |
内藤國雄 | 15回 | 15連勝 | 東西対抗勝継戦10勝以上 | |
二上達也 | 15回 | 7連勝 | その他優勝2回 | |
賀集正三 | 16回 | 5連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | |
西村一義 | 16回 | 11連勝 | 東西対抗勝継戦優勝 | 1966年度に2度優勝 |
山田道美 | 16回 | 5連勝 | その他優勝2回 | 連勝2度目 |
西村一義 | 17回 | 5連勝 | 1967年度優勝なし |