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名人戦 十八期(単位が回数のものが一般棋戦。初期の王座戦は一般棋戦だった)
王将戦 十七期
王位戦 十二期
棋聖戦 十一期
十段戦 八期
九段戦 六期
王座戦 七回
NHK杯戦 六回
早指し王位戦 四回
名人A級勝抜戦 四回
東京新聞杯戦 二回
早指し選手権戦 二回
産経杯争奪戦 一回
全八段戦 一回
将棋連盟杯戦 一回[1]
夕刊四社の『最強者選抜戦』に大山康晴八段優勝。これを記念して塚田正夫名人―大山康晴八段の特別対局おこなわる。[8]というように「優勝」という言葉を使っているのであろう。記念対局が行われたのであれば、当時は棋戦優勝だったと考えられる[9]。
24年〔時事勝継戦〕5人抜き[11]とあるので、「時事勝継戦」とする。
五人抜き優勝者には本社賞が賭けられ次で名人と対戦することになつている[12]とあり、五人抜きが優勝扱いである事が分かる。大山九段は十五回に登場。病気で一旦休むが、復帰後四人抜いて合わせて五人抜き、松下七段に負けて退場した(棋戦進行は将棋棋士成績DBから)。木村義雄名人との記念対局は1951年6月17日に行われ、名人と九段の対局となった事もあり、六月十八日付の『時事新報』では対局写真入りで報じた。
塚田前名人、原田、南口、丸田各八段、小堀七段に連勝して連盟規程により名人との対局の資格を得た大山九段と木村対升田名人戦に升田を降して第十期名人位を確保した木村名人との対局[13]五人抜きを優勝として名人と記念対局を行うのは、連盟規程であったようだ。
今回は、出場棋士も名人を加えて四十一名という豪華版。名人は、東軍西軍いずれかゞ勝利を占めたとき、負けた側に出場して勝継戦に参加するという新らしい方式が採用された。[14]第三回までは、名人は五人抜き優勝者と記念対局をする形であった。しかし、この回は名人も一人の棋士として出場するように規程が変わっている。そして実際に、西軍が勝利した後に名人が登場する事となった。
第四回東西対抗勝継戦は、花村(勝)丸田戦を以て西軍に凱歌が挙つた。五人抜きは熊谷ひとり、四人抜きは北村(秀)ただ一人で、いずれも西軍であつた。「規程により」と書かれている事、「五人抜き成るか?」と五人抜きに触れられている事から、名人が記念対局をするのではなく、第四回開始時の方式が変わる事なく、通常の勝継戦方式で名人が参加した事が分かる。
(中略)
西軍の勝利で花村、坂口、広津、板谷、大野が残り、規程によつて大山名人がここに登場することとなつた。花村が対局過多のため坂口が第一戦に出たが、三月二十日名人まず勝星をあげた。千日手でその指直しを同日強行するという気合の入れ方であつた。名人の五人抜き成るか?[15]
本社主催特別模範勝継戦の大山名人対大野八段戦は一日午前十時から東京中野の日本将棋連盟で行われ同日午後三時卅分八十八手で大山名人が勝つた。これで名人は、坂口、板谷、花村各八段、広津七段、大野八段を連覇、五人抜きをした。[16]この五人抜きに賞金が出た事も観戦記で触れられており[17]、規程や取り上げられ方、そして実際に賞金が出ている事を合わせて考えると、棋戦優勝としての条件は揃っている。また、第四回は熊谷達人七段の五人抜きが棋戦優勝としてカウントされており[18]、西軍の熊谷七段の五人抜きを棋戦優勝とするのであれば、東軍として参加した大山名人も棋戦優勝とするのが自然である。
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | |
1961年
|
●○ | ●●○ | ||||||||||
段級
|
7級 | |||||||||||
1962年
|
●○○ ○● |
●●○ ●○ |
●●● ○ |
●○○ ● |
(不明) | ●持● ●● |
●●● ●● |
●○● ○○●(昇) |
●●○ ●○● |
○○● ●○○(昇) ●● |
●○○ ●●● ● |
○●● ● |
段級
|
(昇級月不明瞭) | 6級 | 5級 | 4級 | 3級 | |||||||
1963年
|
●○● ●●● ○ |
●○● ●●○ |
○(昇)●● ●● |
●●● ○● |
●○○ | ●○(昇)● ●●● |
○●● ●● |
(不明) | ●●● ●●● |
○●● ●●● |
●●● ●● |
0勝3敗 |
段級
|
3級 | 2級 | 1級 | |||||||||
1964年
|
1勝4敗 | 0勝3敗 | 1勝3敗 | 0勝6敗 | 0勝6敗 | 1勝4敗 | 0勝6敗 | 1勝5敗 | 1勝5敗 | 1勝4敗 | 1勝3敗 | 0勝6敗 |
段級
|
1級 | |||||||||||
1965年
|
(不明) | (不明) | (不明) | (不明) | 1勝5敗 | 0勝5敗 | 5勝5敗 (2ヶ月分) |
2勝10敗 (2ヶ月分) |
0勝4敗 | 1勝5敗 | ||
段級
|
1級 | |||||||||||
1966年
|
1勝5敗 | 0勝6敗 | (不明) | 3勝1敗 | (不明) | 休場 | 休場 | 休場 | 以下名前なし | |||
段級
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1級 | 初段 |
【同人誌刊行のお知らせ】
— 田代深子 (@rieko_w) February 3, 2020
『 不撓 ー忘れられた棋士、松田辰雄八段の記録 』
発行:将棋史学同人
執筆者:石川陽生七段、小笠原輝、君島俊介、けんゆう(五十音順)
表紙画『顕現』:松本渚
2020年2月4日 刊行
A5判・162頁・全頁モノクロ
本体2,000円 発送の場合は送料200円 pic.twitter.com/JFIEwY9nQu
・ 原本の不備・欠損等により符号が確定しえない指し手には、編者らが妥当であると考える符号を補足し、傍線を付した。と註釈を入れた上で、成不成の符号をいれている。
『将棋名人戦全集』編集にあたって『不撓』の掲載譜についても、消費時間と総消費時間が合わない観戦記については、同じ方針で棋譜を掲載している。
⦿指し手の下の洋数字はその一手に消費した時間(分)ですが、そろばんをいれて合計した数が一局の総消費時間と合致しない棋譜が、ときたまあります。修正してつじつまを合わせることはかえって不正確となるので、そのままにしました。
六七段戦勝繼大棋戰三十三回というわけで、『都新聞』に1939/2/25より3/8まで10譜掲載された、"第三十三回六、七段勝繼大棋戦"の溝呂木光治七段対梶一郎六段戦(香落)を見てみよう。
この將棋は或る意味に於て記録すべき一局なのである。といふのは新聞紙上の手數は半分にも足りず終わつてゐるが、本當は五百手以上も指したといふからである。
古來こんなに手數の長い將棋は絶對に無い。今まで最も手數の長かつたのが三百何手であるから、それより二百手も長いわけだ。
(『将棋世界』1939年4月号 50p)