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将棋棋士の食事とおやつ出張所

食事休憩の時間が定められたのはいつなのか

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食事休憩の時間が定められたのはいつなのか

1932年の國民新聞についてのツイートをした際、窪田義行七段から休憩時間についての指摘があった。


戦前において休憩時間は、手合いを決める時に、あるいは棋戦毎に定められていたようだ。
しかし、定刻に休憩が取られていたわけではなく、適当に時間を見計らって(あるいは出前が到着してから)休憩を取っている。
例えば、第2期名人戦、八段リーグの坂田三吉対神田辰之助八段戦において、神田八段が坂田に食事時間の相談をしている記録がある。

定刻に休憩を取るようになったのは戦後で、決めたのは丸田祐三九段なのが分かっている。
将棋世界平成17年9月号「時代を語る・昭和将棋紀行特別編 丸田祐三九段」において、
・昼食(夕食)休憩を12:10(18:10)からの50分とした事。
・タイトル戦は1時間とした事。
・50分にしたのは、対局が早く終わる事と事務方の都合で、打ち合わせなどを20分の間にした事。
などを語っている。

観戦記などを読むと、第8期名人戦第1局(1949/03/29)では、17:30頃に記録係が木村前名人に夕食時間を18時にするか18時半にするかの相談をしていて、まだ定まっていない。
一方第10期名人戦第1局(1951/03/20)では、夕食の指しかけ時刻に立会人がやってきて休憩を宣言している。
この間丸田九段は理事であったので、1949年~1951年の間に決められていると見て間違いない。
ここまでで認識が止まっていたが、実際どうであったのか今回調べてみた。


第9期名人戦はどうだったか。
朝日新聞で改めて調べると、1950/03/26付の永井龍男の随筆で、
「第二日は六時から七時と定められた夕食時間」という記述が見つかった。
随筆は盲点だったが、これで1950年には決まっていた事が分かった。
遡って1949/08/28付で朝日新聞が名人戦の契約と持時間の変更を発表している。
丸田九段はこれまでに定めたようだ。
つまり、1949/03/29~1949/08/28の間に決まったという事になる。

この頃将棋連盟に何があったか。
実は、07/29に社団法人になった将棋連盟は、8月上旬に中野に将棋会館を設けている。
それまでは自前の対局場がなかったため、対局の度に家や寺などを借りていたらしい。
他人様の家を借りていては、決まった時間に休憩を取るのは難しかったかもしれない。
それが今度は自前の対局場になって、休憩時間がまちまちだと今度は事務に支障が出る。
そこで、丸田理事が休憩時間の規定を定めた、という経緯だったのだろう。
状況や時期を考えると、中野の将棋会館で対局を始めた時点から休憩時間を定刻にしたのではないだろうか。

当時を知らないと経緯は不明で、河口俊彦八段じゃないが
「なぜ12時からでなく、10分すぎなのかは判らない。」
と言いたくなる気持ちも分かる。
しかしこの10分すぎからの休憩時間というのは、戦後の混乱を乗り越えて自前の対局場を手に入れた将棋連盟が、これから発展していくためにどうしたら円滑に物事を進められるか練りに練って最初に定めた規定だと思われる。

こういう細かい規定を作り将棋界を発展させていった先人たち、そして中野の将棋会館や千駄ヶ谷・福島の将棋会館の建設資金を募金した一般の将棋ファンの熱意で現在の将棋界がある事を、今将棋を楽しんでいる人は忘れてはいけないと思う。
窪田義行七段の指摘から、個人的に非常に勉強になった。改めて窪田義行七段には感謝したい。


※将棋連盟の中野移転日など調べきれなかった事もあるので、詳しい事を知っておられる方がいらっしゃいましたら教えてください。

参考文献
「9四歩の謎」岡本嗣郎 集英社 1997
「将棋名人戦観戦記」倉島竹二郎 中央公論社 1957
将棋世界13(1~12)39(8)69(5)
将棋マガジン
7(2)
朝日新聞縮刷版昭和24年(5~8月)昭和25年(1~4月)
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自己紹介:
将棋棋士の食事とおやつに関する話だったが、将棋考古学沼ネタもこちらで。

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