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    <title>将棋棋士の食事とおやつ出張所</title>
    <description></description>
    <link>http://demae.3rin.net/</link>
    <language>ja</language>
    <copyright>Copyright (C) NINJATOOLS ALL RIGHTS RESERVED.</copyright>

    <item>
      <title>91年前の見る将棋論から</title>
      <description>（初出：『将棋ペン倶楽部第78号 2022年･秋』）&lt;br /&gt;
※国立国会図書館デジタルコレクションのリンクを張るなど、一部に修正をしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　現在の将棋ブームがこれまでと違うのは、将棋を観るファン、所謂「観る将」が顕在化したことである。観る将のなかには、将棋のルールを知らないようなファンもいるとのことだ。&lt;br /&gt;
　そんな観る将にも将棋を指してもらおうという流れが一部にあり、『将棋ペン倶楽部通信』59号においてもそうしたタイトルの記事が２つ見られる。しかし、「観る将から指す将へ」とする流れは、将棋界が、そして将棋ペンクラブが目指す所なのだろうか。&lt;br /&gt;
　日本で最初のジャーナリズム・マス・コミュニケーションの講座である『総合ヂャーナリズム講座』（内外社・全十二巻）の五巻には、観戦記者の草分けである菅谷北斗星の書いた「&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1801401/1/66&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;將棋の記事に就いて&lt;/a&gt;」という項がある。これは、日本で最初に将棋記事・観戦記を研究した文章である。今回は、91年前の1931年に北斗星が発表したテクストを読みながら、「将棋を見る」こと、また、「文章を通じての将棋ファン拡大」について考えてみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　なぜ観戦記者が誕生したのか。それについて北斗星は、「畢竟将棋は指すものであり、見るものではない、との不滿の聲が絕えなかつた」からであるとしている。そのような不満の声を、「積極的に新聞社――編輯部の手が動いて、將棋記事を一ツのニユウスとして扱つては如何といふことになり、最初に「讀賣」が手をつけ、對局を棋士の手から記者の手に受け取り、これを將棋記事として、發表すること」によって解決しようとした。これが観戦記者による観戦記の始まりである。&lt;br /&gt;
　注目したいのは、91年前に既に「将棋は指すもの」という言説があり、それに対するアンチテーゼとして観戦記者が誕生したということだ。将棋の文章は、将棋を&amp;ldquo;見る&amp;rdquo;ためのツールとして出発した。北斗星は、「將棋の讀物化！　これが今日の第三期に該當する將棋欄の現狀である」と続ける。遊戯としての将棋は指すことでしか成立しないが、読物のように&amp;ldquo;見る&amp;rdquo;ことで将棋の魅力を伝えようと試みたのが、将棋の文章なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　では、具体的にどう将棋を読物化したのか。北斗星は野球ファン・競馬ファン・文学青年といった各種のファンが求めているものを考え、「フアンの通有性として、自分達の目標とするものゝゴシツプであらう」と結論付けた。そして、このゴシップを、「重要な適藥」として観戦記に取り入れていった。&lt;br /&gt;
「ゴシツプ的興味は、一般フアンの通有性といふより、近代人の汎く持つ特質かも知れないが、文學靑年が菊池寛の作物それ自體に興味を持つ以上に、菊池寛の生活餘事により以上の興味を持ち、これを探索し吹聴して得々としてゐる様に、将棋フアンは同じく土居八段、木村八段の身邊雜事に異常の興味を持つてゐるのである。」とした北斗星は、その具体例として、木村八段がフケで困っていることを書いたら数人の読者からフケ取りの妙薬が届いたことを挙げている。フケの薬は、将棋の指し手とは全く関係のないものだ。91年前の将棋ファンも、今の観る将と同じく、盤面だけでなくその周辺に興味を持っていたことがわかる。顔、仕草、服、食事のメニューといった棋士のゴシップは、将棋ファンが昔から潜在的に求めていたものだったのだ。それを喝破し記述を心掛けた事が、それまでの「無味乾燥、生硬蕪雑」であった将棋記事を読物化することに成功し、北斗星を観戦記者の草分けとたらしめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そして、北斗星などによるこうした観戦記が始まるようになってから、将棋界は発展していく。北斗星が観戦記を書き始めた昭和２年に読売新聞社は東西將棋八段優勝手合の掲載を始め、この時対局料が倍以上に上がった。その後他紙もこうした観戦記を掲載するようになり、その結果、新聞社から契約金が入り棋士は潤い、新聞を通じて将棋ファンも増えていった。その中には、将棋を知らない読者もいたようだ。ここでは、北斗星と並んで黎明期の観戦記者として知られる倉島竹二郎（当初のＰＮは棋狂子）の観戦記に対する読者投稿を紹介したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　棋狂子の觀戦記は近來の讀み物です。小生は餘り將棋の事は知らず從つて興味もなかつたのですが、今度は知らず〳〵讀まされました。まるで連載小説のやうに明日が待たれます。&lt;br /&gt;
『國民新聞』「讀者の聲」1932年9月4日付&lt;/blockquote&gt;
　倉島は、対局中の食事、所謂「将棋めし」を初めて記述した人物であり、北斗星と同じくゴシップを観戦記のなかで効果的に使用している。そうした観戦記が、将棋を知らず、興味もない読者を将棋ファンにしている。黎明期の観戦記者たちがゴシップを重視したことは、重要なことである。将棋の普及にあたり、ゴシップが果たした役割は非常に大きなものであると言えよう。&lt;br /&gt;
「フアンの持つゴシツプ的興味を巧みに記事に捕へなければ嘘だと思ふ。一ツのゴシツプ的記事が、妙手奇手の解説より、どれほど讀者の興味を引くことか！　私は數多くこれを經驗してゐる。」とした北斗星が、観る将が顕在化した今の将棋界を見たらどう思うだろうか。我が意を得たり、と喜んでいないだろうか。将棋のルールを知らず興味がなかった人にも将棋に親しんでもらうことこそが将棋の普及であり、北斗星が目指していたものであり、そして、文章を通じての将棋ファン拡大と言えるのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、91年前には既に北斗星が将棋を見せるための文章を書き始めており、90年前には将棋を知らない将棋ファンがいたことも分かったが、冒頭で「観る将が顕在化した」と書いたように、今まで観る将は認知されてこなかった。なぜだろうか。それは、「将棋ファンとは将棋を指す人のことだ」という認識が将棋界内外で共有されていたからではないか。&lt;br /&gt;
『将棋世界』1984年2月号の「声の団地」において、「拝啓　倉島竹二郎様」という、女性の投稿がある。「将棋そのものは、ほとんど知らない私が、これほどまで魅力を覚えるようになったのも、主人の影響も有るのですが、倉島竹二郎氏の純文学と断言出来るほどすばらしい観戦記を知ってからなのです。」と綴る彼女の投稿は、倉島の観戦記を通じて、将棋を観る魅力を語ったものである。連盟機関誌に投稿する熱量もあり、今の目線で見ると立派に将棋ファンにカテゴライズされるべき人であるが、彼女は冒頭で「棋譜の部分を抜かして読むのですから、正確には、将棋人口の内へは入れてもらえない部類に属するのでしょう。」と前置きを入れている。つまり、彼女自身は自分を将棋ファンだとは思っていないのだ。なぜならば、将棋を指せないから。将棋ファンが自分を将棋ファンであると認識できないのは、非常に悲しいことである。「畢竟将棋は指すもの」という将棋界に昔からある考え方が、本来は普及できていたはずの潜在的な将棋ファンに対して、将棋の普及を阻害していなかっただろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　観る将は将棋を指したいのではない。ただ将棋を楽しみたいのだ。そして、ゴシップを通じて将棋を観ることに楽しみを感じている。互いに認め合うということは、相手の価値観を尊重するということである。たとえ理解できなくても、相手を尊重して自らの考えを押しつけないことが大切だ。それが、互いに認め合う第一歩なのだから。&lt;br /&gt;
　北斗星は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　將棋の讀物化を目射す以上、外の一般百パーセントの興味を狙ふ連載物と同巧異曲である。&lt;br /&gt;
　要約するに、私は將棋の大衆文藝を書く積りで筆を採ることが第一であると思ふ。双方の駒をススメ、それ〴〵敵玉の奪ひ合ひ、陣立、合戰、寄せ具合、一局一篇の大衆文藝でなくて何であらう。&lt;/blockquote&gt;
　と原稿を結んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　プロ将棋は大衆文芸なのである。観て楽しみ、読んで楽しむものであって、自分が遊戯に参加するものではない。そして遊戯への参加を強制されるものでもない。そこでは、男女の区別や棋力のあるなしは問われない。あらゆる層に将棋に興味を持ってもらうこと、親しんでもらえるように努めることこそが、将棋の普及である。&lt;br /&gt;
観る将が顕在化し、将棋文化のひとつとして成立した現在は、そうした指さない層にいかに興味を持ち続けられる読物を届けていくかが、以前にも増して重要になっている。将棋ペンクラブの「文章を通じての将棋ファン拡大とライターの発掘、養成をはかること」という目的は、今こそ大切にしなくてはいけない考え方だ。将棋ペンクラブは、あくまで文章を通じての将棋ファン拡大を目指すべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　最後に、今回の話題をまとめる。91年前に菅谷北斗星が目指したのは「将棋を読物化して将棋を見るファンを増やす」ことであり、そうした層が増えていくことによって将棋界は発展していった。そして、「観る将」が定着した現在は、北斗星が目指してきた世界のひとつの到達点である。将棋界や将棋ペンクラブが目指す所は、将棋を指すファンを増やすことではなく、「文章を通じての将棋ファン拡大」ではないか。指さなくても文章を通じて将棋に親しむ観る将が増えることで、将棋界の未来が明るくなるものと私は考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参考文献&lt;br /&gt;
菅谷北斗星「將棋の記事に就いて」『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1801401/&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;綜合ヂャーナリズム講座&lt;/a&gt;』第五巻、内外社、1931年</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/other/1931</link> 
    </item>
    <item>
      <title>消えた将棋の天才、藤井少年</title>
      <description>（初出『カクナリ！８』2022年10月　ブログ記事化にあたり、一部に修正をしました）&lt;br /&gt;
（註・『将棋評論』『将棋月報』のリンクは、国立国会図書館デジタルコレクションより)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;私は趣味で、１９４５年以前に海外で発行された新聞の将棋欄を調べています。基本的には日本語新聞を読んでいるのですが、朝鮮総督府の機関紙として発行されていたハングルの『毎日新報』を眺めていた所、１９４０年9月28日付紙面で、「將棋의天才兒出現」という記事がありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote class=&quot;twitter-tweet&quot;&gt;
&lt;p dir=&quot;ltr&quot; lang=&quot;zh&quot;&gt;「소식통-將棋의 天才兒出現」『每日新報』1940年9月28日付 &lt;a href=&quot;https://t.co/MkMMURJIcf&quot;&gt;pic.twitter.com/MkMMURJIcf&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&amp;mdash; おがちゃん (@apout1992) &lt;a href=&quot;https://twitter.com/apout1992/status/1548717790953029632?ref_src=twsrc%5Etfw&quot;&gt;July 17, 2022&lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;script async=&quot;&quot; src=&quot;https://platform.twitter.com/widgets.js&quot; charset=&quot;utf-8&quot; type=&quot;text/javascript&quot;&gt;&lt;/script&gt;
&lt;br /&gt;
　親切な方に翻訳していただき、詳細が分かりました。要約すると、「十七歳の藤井朗少年は、小児麻痺を患い二本の脚を使えなくなったが、家にいる間に将棋を学び始めた結果「將棋の天才」と言われるようになり、萩原淳八段の門下になった」という内容のようです。&lt;br /&gt;
　萩原淳八段門下の小児麻痺の少年ということを知り、私は 、菅谷北斗星が「消えた本物の天才」ととその才能を惜しんだＴ少年を思い出しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　日支事變がまだ太平洋戰争に突入しない前であつた。神奈川縣長後町の相模殖産學校長の渡邊信雄氏が、是非見て貰いたい少年があるからと、牛込神樂坂の某旗亭に私を招待した。&lt;br /&gt;
　私は萩原八段と伴れ立つてでかけて行つた。手厚い饗宴に預つた末、問題の少年を紹介された。少年は十五六才で病的に青白い顏をして居た。その筈で、小兒マヒのせいか殆ど歩行も困難な身体で、その日も旗亭まで俥に乗つてやつて來たのだつた。&lt;br /&gt;
菅谷北斗星&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/11207069/1/6&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;「消えた天才消えない天才』『将棋評論』１９５０年１月号 &lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;br /&gt;
　から始まる文章は、萩原八段に「七八段になる将棋」と太鼓判を押されたＴ少年の棋力を紹介しながら、不便な身体では不自由が多く「戦争が済んでから内弟子にするから、戦争中は家で勉強するように」と話していた所不幸なことに戦争中に亡くなってしまった。という話です。&lt;br /&gt;
北斗星が「かけ値なしの天才」と評価し、「せめて社会状態が今日であったら」「夢、夢、夢、みんな夢の彼方に消えてゆく」と大きく嘆いたＴ少年は、経歴が同一である藤井朗少年のことでしょう。&lt;br /&gt;
　では、藤井少年は将棋界から「消えた天才」なのでしょうか。実は、藤井は詰将棋作家として名を残しています。『詰将棋パラダイス』という詰将棋雑誌が２５０号記念に「古今短編詰将棋名作選」という特集をした際、昭和初期の詰将棋の解説を担当した村山隆治がこう書いています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;&amp;nbsp;昭和の初期から大東亜戦争の末期までの詰将棋界は、当時信州の松本市で発刊されていた、『将棋月報』という詰将棋専門誌が、牛耳っていたと云っても過言ではあるまい。&lt;br /&gt;
　そして、その中から幾多の俊才が芽生え、抜群の才能を惜しまれつつ夭逝していった。曰く、酒井桂史、&lt;strong&gt;藤井朗、&lt;/strong&gt;岡田秋霞、佐賀聖一、北村研一、有馬康晴らである。&lt;br /&gt;
村山隆治『詰将棋パラダイス』１９７６年11月号&lt;br /&gt;
（註・強調は引用者によるもの）&lt;/blockquote&gt;
&amp;nbsp;『将棋月報』は、解説にあるように、戦前、松本市で発行されていた将棋雑誌です。定跡講座や新聞掲載譜の紹介、将棋史研究やエッセイなどもあって詰将棋専門誌というわけではないのですが、詰将棋の出題や解答の投稿も多く、詰将棋に多くの熱量が注がれていた雑誌です。そんな雑誌に、藤井も参加していたようです。&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;今回は、夭逝した天才藤井朗の、詰将棋作家としての足取りを追ってみたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　藤井の詰将棋作家デビューは『将棋世界』（以下世界）１９３９年12月号です。翌1月・2月号と発表は続き、計3局掲載されました。『将棋月報』（以下月報）では、まず、１９４０年8月号において「&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767212/1/25&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;詰將棋の餘談&lt;/a&gt;」が掲載されます。これは、他の掲載作の余詰（詰将棋の作品が不完全であること）の指摘です。藤井は余詰に関する投稿を何度もしており、後に月報誌上で「&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767222/1/59&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;余詰探しの大家&lt;/a&gt;」と紹介されるほどの優れた才能を発揮しています。月報での作品発表は同年の&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767213/1/51&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;10月号&lt;/a&gt;・&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767216/1/43&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;11月号&lt;/a&gt;が最初で、一度に十局ずつ計20局発表しています。&lt;br /&gt;
　続く１９４１年も世界や月報で作品を発表しますが、月報での発表は2局と少ないです。&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767229/1/28&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;この年の夏に体調を崩し将棋盤の前に座れない状態が続いていた&lt;/a&gt;そうで、それが理由だと思われます。そんな状態でも、解答を投稿するなど精力的に月報で活動をしています。また、月報での発表作2局はいずれも&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767230/1/45&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;１９４１年度の作品賞を受賞&lt;/a&gt;しており、詰将棋作家として高く評価されています。&lt;br /&gt;
　１９４２年に入っても創作意欲は衰えず、投稿をしています。世界2月号の「詰將棋コンクール」では二等に入賞します。当時流行し藤井が得意としていた実戦型で、作図の形を特に評価されています。月報では、&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767231/1/52&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;3月号&lt;/a&gt;・&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767232/1/34&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;4月号&lt;/a&gt;の「圖硏會詰將棋」というコーナーで出題します。この〈図研会〉は、二十才前後の青少年たちで組織された詰将棋の研究会です。&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767232/1/27&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;創立メンバーの六名に藤井の名前も入っています&lt;/a&gt;。先に紹介した『詰将棋パラダイス』の記事を書いた村山隆治もその一員で、村山と藤井は図研会の同人でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;詰将棋で名前を上げ、同年代の仲間も得るなど、着実に将棋界を歩み続けてきた藤井ですが、ここで突然歩みが止まります。5月以降、将棋雑誌に藤井の名前が出てきません。前年からの病が重くなり、とうとう脳内盤も動かせなくなってしまったのでしょう。月報において次に名前が出てくるのは翌１９４３年5月号で、&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767245/1/25&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;訃報記事&lt;/a&gt;になります。亡くなるまでの一年間の記録は残っていませんが、同人と文通はしていたようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;藤井が亡くなったのは、１９４３年4月16日です。享年二十才。&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767245/1/25&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;訃報記事&lt;/a&gt;では、「非凡なる詰棋力を有した同氏が、これからと云ふ時になくなつた事は實に残念であり悲しい」と惜しまれています。同日、図研会の同人であった岡田秋霞も示し合わせたかのように亡くなっています。神奈川と山口で離れていた二人は、詰将棋話をするために天国で待ち合わせをしたのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;藤井朗が活動した期間は三年ほどと非常に短いものでした。また、棋譜がひとつも残っていないため、指し将棋については実力が分かりません。&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;しかし、詰将棋においては、彼の名を惜しんでその名を書き残した仲間によって、消えた天才とはなっていません。遺した31局の作品が、その才能を今でも証明しています。そして時代を越え、現代に生きる私たちも作品を楽しめます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;最後に、遺作となった詰将棋を紹介いたします。歩を横に並べ、狭いスペースで玉を追いかける形が藤井詰将棋に多く見られます。狭いスペースで躍動する駒たちを、小児麻痺で足が動かないなか盤上で表現をしようとする藤井となぞらえてみたいのですが、私のうがちすぎでしょうか。&lt;br /&gt;
詰将棋の解答は末尾に記します。解けない方も、玉の動きだけでも鑑賞していただけますと幸いです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;//demae.3rin.net/File/f19424s.png&quot; alt=&quot;&quot; /&gt; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;
藤井朗作。&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767232/1/34&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;『将棋月報』１９４２年4月号発表&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
詰将棋解答（&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/pid/1767234/1/57&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;『将棋月報』１９４２年6月号&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
▲３三角△１二玉▲２一銀△２三玉▲２二角成△同玉&lt;br /&gt;
▲３二金△１三玉▲１二金△２三玉▲２二金右△１三玉&lt;br /&gt;
▲１二銀成迄13手詰</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/shogi/fujii</link> 
    </item>
    <item>
      <title>大山康晴十五世名人の一般棋戦優勝回数について</title>
      <description>（初出『将棋ペン倶楽部通信』53号。なお、日付や棋戦進行のリンクなど一部に修正を施した）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　２０１９年３月に放送されたＮＨＫ杯戦において羽生善治九段が優勝し、大山康晴十五世名人の一般棋戦優勝回数を抜いたと発表された。大山名人の記録は44回で、45回優勝した羽生九段がそれを抜き最多記録になったというものだ。しかし、羽生九段は本当に大山名人の記録を抜いたのだろうか。それを考えるのが本項の目的である。&lt;br /&gt;
　まず、大山名人の44回優勝の内訳を確認したい。大山名人の著書『棋風堂堂』の中で、「百回優勝記念祝賀会」について触れられた際、記録の内訳も書かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 名人戦　十八期&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 王将戦　十七期&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 王位戦　十二期&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 棋聖戦　十一期&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 十段戦　八期&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 九段戦　六期&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 王座戦　七回&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; ＮＨＫ杯戦　六回&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 早指し王位戦　四回&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 名人Ａ級勝抜戦　四回&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 東京新聞杯戦　二回&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 早指し選手権戦　二回&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 産経杯争奪戦　一回&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 全八段戦　一回&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 将棋連盟杯戦　一回[1]&lt;/blockquote&gt;
(単位が回数のものが一般棋戦。初期の王座戦は一般棋戦だった)&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&lt;br /&gt;
　百回優勝の内、一般棋戦優勝は28回である。その後優勝4回の記録漏れがあったとの事で修正されるが[2]、その内容は、『将棋年鑑』での塚田正夫名誉十段の優勝回数も二回増えた事から[3]、読売新聞社の全日本選手権における名人九段戦と思われる。大山名人はその後も一般棋戦を12回優勝し、合わせて44回優勝した勘定である。&lt;br /&gt;
　しかし、昭和20年代の新聞観戦記を読む限り、大山名人はあと3回優勝していて、その記録が漏れていると思われる。これから、その3回を個別に説明していく。なお、一般棋戦優勝かどうかを判断するには、「その棋戦が公式戦か」「当時棋戦優勝として扱われていたか」の二点を満たす必要があると思われる。前者に関しては、『大山康晴全集』[4]と大山名人の年度別成績[5]を確認する限り公式戦であるので、ここでは「当時棋戦優勝として扱われていたか」だけを見ていきたい。&lt;br /&gt;
　まず、昭和23年度に行われた夕刊四社連合（夕刊北海タイムス・フクニチ・名古屋タイムズ・夕刊ニイガタ）の棋戦から。掲載紙によって名称が違うのだが、『将棋新聞』[6]で「最強棋士選抜大棋戦」と書かれている事もあり、後述する近代将棋史年表で書かれる「最強者選抜戦」をここでは採用する。&lt;br /&gt;
「最強者選抜戦」は、大山八段が丸田祐三八段・松田茂行七段との三番勝負に勝ち優勝し、塚田名人と記念対局を行ったというものである（棋戦進行は&lt;a href=&quot;http://kenyu1234.php.xdomain.jp/resultsm.php?sen=0&amp;amp;mn=243&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋棋士成績DB&lt;/a&gt;から）。&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;現在の目線で見ると、三番勝負で二棋士に勝っただけで棋戦優勝というのは釈然としない所がある。しかし当時は、棋戦優勝すると名人との記念対局を行える、というのが基本的なルール「最強者選抜戦」の前に夕刊社連合が行った八名によるトーナメントに優勝したのは花村元司六段だが、花村六段も塚田名人と記念対局を行っている。近代将棋史年表も、当時の認識に沿って&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;&amp;nbsp;　夕刊四社の『最強者選抜戦』に大山康晴八段優勝。これを記念して塚田正夫名人―大山康晴八段の特別対局おこなわる。[8]&lt;/blockquote&gt;
　というように「優勝」という言葉を使っているのであろう。記念対局が行われたのであれば、当時は棋戦優勝だったと考えられる[9]。&lt;br /&gt;
　次に、昭和26年に行われた時事新報・大阪新聞の勝抜戦を見る。これも掲載紙によって棋戦名が異なる。『将棋世界』や『将棋新聞』[10]で書かれる「日本最高勝継棋戦」が正式名称であるようにも思えるが、『将棋年鑑』の松下力九段の項目で棋戦優勝として&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;&amp;nbsp;24年〔時事勝継戦〕５人抜き[11]&lt;/blockquote&gt;
　とあるので、「時事勝継戦」とする。&lt;br /&gt;
「時事勝継戦」は、『時事新報』一九五〇年五月一日付から第三回を開始。社告には&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;&amp;nbsp;五人抜き優勝者には本社賞が賭けられ次で名人と対戦することになつている[12]&lt;/blockquote&gt;
　とあり、五人抜きが優勝扱いである事が分かる。大山九段は十五回に登場。病気で一旦休むが、復帰後四人抜いて合わせて五人抜き、松下七段に負けて退場した（棋戦進行は&lt;a href=&quot;http://kenyu1234.php.xdomain.jp/resultsm.php?sen=0&amp;amp;mn=203&amp;amp;pd=2003&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋棋士成績DB&lt;/a&gt;から）。木村義雄名人との記念対局は1951年6月17日に行われ、名人と九段の対局となった事もあり、六月十八日付の『時事新報』では対局写真入りで報じた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　塚田前名人、原田、南口、丸田各八段、小堀七段に連勝して連盟規程により名人との対局の資格を得た大山九段と木村対升田名人戦に升田を降して第十期名人位を確保した木村名人との対局[13]&lt;/blockquote&gt;
　五人抜きを優勝として名人と記念対局を行うのは、連盟規程であったようだ。&lt;br /&gt;
　実際に、松下九段の「時事勝継戦」の五人抜きは優勝扱いになっている。『将棋年鑑』では優勝年を昭和24年としているが、24年の「時事勝継戦」では、松下七段は一人抜いて敗退しているので誤り。実は松下七段が本当に五人抜いたのはこの26年の方で、大山九段に勝利した後、その勢いで五人抜いている（棋戦進行は&lt;a href=&quot;http://kenyu1234.php.xdomain.jp/resultsm.php?sen=0&amp;amp;mn=203&amp;amp;pd=2003&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋棋士成績DB&lt;/a&gt;から）。&lt;br /&gt;
　つまり、同一の棋戦で同じように勝利しているのに、大山名人の方は棋戦優勝に含まれていない。当時の規程では優勝扱いであるので、大山名人の棋戦優勝が漏れてしまっている事になる。&lt;br /&gt;
　最後は、昭和三十年の同じく時事新報・大阪新聞の勝抜戦、「東西対抗勝継戦」である。&lt;br /&gt;
　第四回の「東西対抗勝継戦」は『時事新報』1954年3月13日付より掲載が始まるが、最初の観戦記でこう紹介される。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　今回は、出場棋士も名人を加えて四十一名という豪華版。名人は、東軍西軍いずれかゞ勝利を占めたとき、負けた側に出場して勝継戦に参加するという新らしい方式が採用された。[14]&lt;/blockquote&gt;
　第三回までは、名人は五人抜き優勝者と記念対局をする形であった。しかし、この回は名人も一人の棋士として出場するように規程が変わっている。そして実際に、西軍が勝利した後に名人が登場する事となった。&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;&amp;nbsp;　第四回東西対抗勝継戦は、花村（勝）丸田戦を以て西軍に凱歌が挙つた。五人抜きは熊谷ひとり、四人抜きは北村（秀）ただ一人で、いずれも西軍であつた。&lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
　西軍の勝利で花村、坂口、広津、板谷、大野が残り、規程によつて大山名人がここに登場することとなつた。花村が対局過多のため坂口が第一戦に出たが、三月二十日名人まず勝星をあげた。千日手でその指直しを同日強行するという気合の入れ方であつた。名人の五人抜き成るか？[15]&lt;/blockquote&gt;
　「規程により」と書かれている事、「五人抜き成るか？」と五人抜きに触れられている事から、名人が記念対局をするのではなく、第四回開始時の方式が変わる事なく、通常の勝継戦方式で名人が参加した事が分かる。&lt;br /&gt;
　そしてこの「東西対抗勝継戦」において、大山名人は五人抜きを達成した（棋戦進行は&lt;a href=&quot;http://kenyu1234.php.xdomain.jp/resultsm.php?sen=0&amp;amp;mn=41&amp;amp;pd=2004&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋棋士成績DB&lt;/a&gt;から）。『時事新報』では、対局翌日に記事にして、大山名人の五人抜き達成を祝している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;&amp;nbsp;　本社主催特別模範勝継戦の大山名人対大野八段戦は一日午前十時から東京中野の日本将棋連盟で行われ同日午後三時卅分八十八手で大山名人が勝つた。これで名人は、坂口、板谷、花村各八段、広津七段、大野八段を連覇、五人抜きをした。[16]　&lt;/blockquote&gt;
　この五人抜きに賞金が出た事も観戦記で触れられており[17]、規程や取り上げられ方、そして実際に賞金が出ている事を合わせて考えると、棋戦優勝としての条件は揃っている。また、第四回は熊谷達人七段の五人抜きが棋戦優勝としてカウントされており[18]、西軍の熊谷七段の五人抜きを棋戦優勝とするのであれば、東軍として参加した大山名人も棋戦優勝とするのが自然である。&lt;br /&gt;
　こうして見てきた通り、「最強者選抜戦」・第三回「時事勝継戦」・第四回「東西対抗勝継戦」は、それぞれ当時棋戦優勝として扱われており、大山名人の一般棋戦優勝に加算されるものであると考えられる。よって、大山名人の一般棋戦優勝回数は合わせて47回であり、羽生九段はまだその記録を抜いていないというのが本項での結論である。&lt;br /&gt;
　なお、一般棋戦優勝回数の漏れは、大山名人に限った話ではない。「時事勝継戦」だけを見ても、第一回から第二回にかけての松田辰雄八段が九人抜き、第二回の京須行男七段が五人抜き、第三回の高島一岐代八段が五人抜きをしているが、優勝回数に含まれておらず、記録に不整合な面が見られる[19]。&lt;br /&gt;
　棋譜が保存されていない期間については調査が難しい事は重々承知の上であえて言わせていただければ、日本将棋連盟には改めて成績を調査していただき、より確からしい記録をまとめていただけないだろうか。より確からしい記録をまとめる事が、過去の棋士はもちろん、現代の棋士を正しく評価する事にも繋がるのだから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注&lt;br /&gt;
[1] 大山康晴『棋風堂堂』PHP研究所、一九九二、一五二―一五三頁より、優勝回数部分を抜き出したもの。&lt;br /&gt;
[2] 天狗太郎『文藝春秋』一九七六年三月号、三二八頁&lt;br /&gt;
[3] 『昭和51年版将棋年鑑』では「ほか優勝２回」であったが、『昭和52年版将棋年鑑』より「ほか優勝４回」となる。&lt;br /&gt;
[4] 大山康晴『大山康晴全集第一巻』毎日コミュニケーションズ、一九九一、「全成績」の二七八―二八一頁&lt;br /&gt;
[5] 『将棋世界』二〇一五年二月号、五七頁&lt;br /&gt;
[6] 『将棋新聞』二十二号、「新聞將棋の展望」&lt;br /&gt;
[8] 『将棋世界』一九八一年四月号、一一〇頁&lt;br /&gt;
[9] 『夕刊ニイガタ』では、それまで棋戦名を「最強棋士選抜大棋戦」としていたものを、記念対局では「最強棋士決定大山八段名人挑戦譜」と変えている。優勝した事を「決定」という表記で表したのだろうか。&lt;br /&gt;
[10] 『将棋世界』一九五一年二月号、『将棋新聞』十五号など。&lt;br /&gt;
[11] 『昭和55年版将棋年鑑』日本将棋連盟、一九八一、三二四頁&lt;br /&gt;
[12] 『時事新報』一九五〇年四月二六日&lt;br /&gt;
[13] 『時事新報』一九五一年六月十八日&lt;br /&gt;
[14] 歩三坊『時事新報』一九五四年三月十三日&lt;br /&gt;
[15] Ｋ『将棋世界』一九五五年五月号、六八頁&lt;br /&gt;
[16] 『時事新報』一九五五年七月二日「大山遂に五人抜き　特別模範勝継戦」&lt;br /&gt;
[17]歩三坊『時事新報』一九五五年五月二日&lt;br /&gt;
[18] 『昭和56年版将棋年鑑』までは「29年東西勝継戦で６人抜き」とあり連勝数が正確には違うのだが、『昭和57年版将棋年鑑』で「優勝１回」と変わり、東西対抗勝継戦の五人抜きが優勝１回となっている。&lt;br /&gt;
[19] この三名は、名人との記念対局をそれぞれ行っている事も考えると、松下九段と同様に優勝回数に加算されるべきものである。</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/data/ohyama44</link> 
    </item>
    <item>
      <title>将棋を面白く楽しく</title>
      <description>&lt;br /&gt;
1976年に、将棋史研究家の越智信義が『近代将棋』でインタビューを受けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町田進が&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;将棋界や、棋士の側面、あるいは素顔が、この方々によってどのように語り継がれるか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『近代将棋』1976年1月号&lt;/blockquote&gt;
というテーマで毎号愛棋家を紹介していた「将棋万華鏡」という連載の9回目に、越智が選ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
越智は将棋界においては記録の権威として知られる人物で、将棋の公式記録が整理されるようになったのも越智の尽力があったからだと言われている。&lt;br /&gt;
本文でも「記録のパイオニヤ」として紹介されており、記録の話をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　「まだ情景的な記録が欠けていると思います。対局中に後架(はばかり)に立つ回数とか、後架に行った次手に、他の対局をのぞいていて自席に帰ってこない棋士とか、詰みもしないのに詰んだと大声を上げる棋士とか、競馬新聞を読みながらなのに負かされた棋士とか、まだまだあると思うんですね。もっとも、こうした情景は、観戦記者の仕事かとも思うのですが、まだこれを記録として残すまでには行ってない。たいへん煩雑な仕事ですが、やってやれないことはないと思うのですよ」&lt;br /&gt;
　――たしかにこれは面白いし、記録の新機軸かもしれないが、こうしたことを記録された棋士はどういうことになりますか。プライバシーの問題も起きかねない――&lt;br /&gt;
　「しかし、これらの現象が、対局者の真の姿なら、記録にとどめて永く子孫末代まで残さずばなりますまい」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6047029/42&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)&lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;
観戦記等を読みながら棋士の食事の記述を抜き出して将棋めしとしてまとめる、という不毛な作業を日々しているのであるが、記録の権威である越智のこの話を聞いてホッとした。&lt;br /&gt;
私のやっていることを、越智は認めてくれるような気がする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、記録に関する話の最後で、越智はこんなことを言っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;「それから、対局中に放屁をした棋士もいたんですね&lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
だが放屁も一人の棋士がたまたまやったということではなくて、対局中にも放屁をするということを記録したいわけなんです」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6047029/42&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)&lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;
町田も「記録も、ここまでくれば、極限に達したというべきだろう。」と絶句しているのだが、&lt;br /&gt;
なんでも記録したいという、越智の執念と凄みを感じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜこんな下世話な話に触れるのかというと、戦前の『将棋世界』にも放屁の話が出てくるからだ。&lt;br /&gt;
名人戦を主催していた大阪毎日新聞社の黒崎貞治郎が、「棋士の英雄化と觀戰記」という題でこんなことを言っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;たゞありのまゝ描寫するといつても、汚たない話が、ある棋士が對局中、思はず放屁したとしたら、そのまゝ書いては愛嬌がない。これを神韻縹渺と描寫してこそ觀戰記の役目を果たすのではないだらうか、それでなければ全然黙殺すべきである。要するに、觀戰記は、小説の作法と同じくその取捨選擇が重要であつて、そこに主觀が作用して來る。&lt;br /&gt;
(中略)&lt;br /&gt;
必要以上に誇張した場合ならいざ知らず、將棋に關する限り、八段の諸先生は、時にたしかに英雄であり、神に近いであらう。ただその他の面が常人に劣るところありとして、かやうな人を英雄扱ひするのを苦しいといふのはどうかと思ふ。これを要するに、觀戰記も一種の大衆文學である。從つて面白く樂しく讀ませしかも將棋そのものゝ本道から離れないならば最上の出來といふべきであう。自嘲、懐疑は、要らざる心配であると考へる。「面白く樂しく」といふ、この「樂しく」は絶對に缺くべからざる條件であつて、面白いが、なんか嫌悪な感じのする文章であつたり、表現であつては効果をぐつと下げてしまふ。讀者は常に心に幻想を描いて棋士を考へてゐる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黒崎貞治郎「將棋人國記」『将棋世界』1939年11月号&lt;/blockquote&gt;
観戦記に放屁の話を書くなら、そこに意味があるようにしなければならないとしたものである。&lt;br /&gt;
ただし、放屁の話を書くこと自体を否定しているのではない。&lt;br /&gt;
重要なのは、「将棋そのものの本道から離れずに面白く楽しく読ませる」ことである。&lt;br /&gt;
越智も前述のインタビューでは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;放屁なんてものは、およそ緊張した精神状態では発し得ないと思うのです。したがって精神が遅緩したときに限られていると見ていいでしょう。&lt;br /&gt;
　だから、対局者が遅緩した精神状態ということになると、概して勝局いや、敗局が一転して勝ち運がこちらに向いてきたときなど、ではないか。ホッとしたとたんに、ブウーということになったんではないかと思うのです&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6047029/42&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)&lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;
と、将棋の勝敗を結びつけながら放屁を論じている。&lt;br /&gt;
極端な例ではあるが、将棋の楽しみ方の多様性を、黒崎と越智は表現したのだろう。&lt;br /&gt;
たとえ放屁を題材にとったとしても、将棋を楽しむことはできる。&lt;br /&gt;
将棋ファンは、「好きなように、好きなだけ」将棋を楽しむことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将棋に限らずあらゆる娯楽で大切なことは「面白く楽しく」親しむことであり、黒崎が書くように、とりわけ「楽しく」は絶対に欠かすことができないものだ。&lt;br /&gt;
将棋観戦記者の草分けである菅谷北斗星は、という記事において、各ジャンルのファンが興味を持っているものは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;フアンの通有性として、自分たちの目標とするもののゴシップであろう&lt;strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;/strong&gt;菅谷北斗星「將棋の記事に就いて」『綜合ヂャーナリズム講座』第五巻、内外社、1931年&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1801401/69&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;国会図書館デジタルコレクション、綜合ヂャーナリズム講座. V&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/blockquote&gt;
として、将棋の記事を書く時にゴシップを取り入れることを心がけていた。&lt;br /&gt;
将棋めしを始めとした盤側のゴシップは、昔から、将棋ファンが将棋を面白く楽しく親しむためのツールとなっていた。&lt;br /&gt;
そうした情報が細かく伝わるようになった現在は、ファンにとっては将棋に親しみやすい、とても良い時代となっている。&lt;br /&gt;
ファンが面白く楽しく将棋に接することができるのも、菅谷北斗星を始めとした将棋観戦記者・将棋記者が伝え続けてきた歴史があってこそなのだと思う&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
越智は1987年には『将棋世界』でインタビューを受けているのだが、「将棋史研究家としての立場からなにか連盟に注文とかございますか」という質問をされた時、こう答えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;将棋の本が技術の向上とか、入門書の類が主なのは当然ですけれど、将棋そのもののバックグランドを取り上げて書かれたものがあっても、と思います。将棋というのは、「指す」つまり対局が中心であることはゲームとして当然として、将棋を見る、将棋の話を聞く、総じて将棋を楽しむという面を充実させてほしいなと思いますね。強くなろうとするのはひとりでもできることですから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鴻「棋界功労者インタビュー 読む、見る、聞くを楽しみに（越智信義氏）」&lt;br /&gt;
『将棋世界』1987年9月号&lt;/blockquote&gt;
&lt;br /&gt;
将棋を楽しむためのコンテンツを作り、それを充実させてきた将棋界の先人に心から感謝したい。</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/other/ochi</link> 
    </item>
    <item>
      <title>国立国会図書館デジタルコレクションの歩き方（昭和24年度順位戦のチェスクロック方式）</title>
      <description>※本文中のリンクのうち、国立国会図書館デジタルコレクションの分については「&lt;a href=&quot;https://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2022/220519_01.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;個人向けデジタル化資料送信サービス&lt;/a&gt;」にログインすることで閲覧できます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月19日より、国立国会図書館デジタルコレクションの「個人向けデジタル化資料送信サービス」が開始された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将棋雑誌については、&lt;br /&gt;
『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1867283&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋月報&lt;/a&gt;』&lt;br /&gt;
『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11211586&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋評論&lt;/a&gt;』&lt;br /&gt;
『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1868110&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;王将&lt;/a&gt;』&lt;br /&gt;
『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1868561&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋とチェス&lt;/a&gt;』&lt;br /&gt;
『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6086174&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;近代将棋&lt;/a&gt;』(2000年まで)&lt;br /&gt;
の５誌が、欠号分を除いて閲覧できるようになった。&lt;br /&gt;
図書館では時間に追われるためゆっくり読む時間がなかったのだが、自宅で丁寧に閲覧できるようになったのは非常に嬉しい。&lt;br /&gt;
早速ひとつ分かったことがあるので、少し紹介したい。&lt;br /&gt;
（以下引用文の旧字は新字に直します）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５誌の中で個人的に最も目を引くのが、『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1868561&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋とチェス&lt;/a&gt;』である。&lt;br /&gt;
創刊号は&quot;&lt;a href=&quot;https://id.ndl.go.jp/bib/029162310&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;Japanese periodicals of the Occupation period, 1945-1952&lt;/a&gt;&quot;を通じて憲政資料室で閲覧できるが、巻頭に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　将棋連盟幹部諸氏の新時代に適応した諸政策が、この困難な時代によく棋界の黄金時代を招来した原因であつて、深く敬意を表する。本誌はこの新しい棋界のより良き発展の一助たるべく発足したものであつて、旧套を葉て時代の新感覚を追求して、将棋の永遠の前進向上に貢献せんことを使命とする。&lt;br /&gt;
　終戦の齎らした多くのことの一つにチェスの流行がある。チェスは将棋とその先祖を同じくし、兄弟の関係にある。最も近いゲームであるが、従来は比較的我国には普及を見なかつた。&lt;br /&gt;
　戦後の世界チエス界は将棋と同様空前の隆盛振りで就中、米国、ソ連のチエス熱は凄まじい。日本チェス界も次第に有力となり近く日米対抗試合の学もある由て、その国際的進出も単に時機の問題と思われる。&lt;br /&gt;
　本誌はこゝに着目し、チエスの普及をその使命の一つと考え之を取上けることとした。&lt;br /&gt;
創刊の辭に代えて『将棋とチェス』創刊號&lt;/blockquote&gt;
とあり、将棋だけでなくチェスの普及も考えて発刊された雑誌であることがわかる。&lt;br /&gt;
大変面白い雑誌で、例えば『アサヒグラフ』の企画で升田幸三が背広姿でチェスを指している姿が掲載されている(『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1838242/28&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋とチェス&lt;/a&gt;』1950年2月号)など資料として貴重なものも少なくないが、読んでいて気になる記述を見つけた。&lt;br /&gt;
A級を含めた順位戦の消費時間を、チェスクロック方式で記録していたというものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　順位戦の機構は欠陥の多いもので、いろ&lt;span class=&quot;ILfuVd&quot;&gt;&lt;span class=&quot;hgKElc&quot;&gt;／＼改革が叫ばれて来た。将連当局もよく之を知つて之が画期的な改革を思い立ち将棋新聞紙上に発表した。その骨子は凡そ次の通りであつた&lt;br /&gt;
一、BC級の対局を倍加して各八局とする。&lt;br /&gt;
二、時間記録方法を改めてチエス時計を使用し、一分間以内切捨を発する従つて持時間を一時間増して八時間とする&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
中島富治「将棋夜話（その三）」『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1838236/13&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋とチェス&lt;/a&gt;』1949年8月号&lt;/blockquote&gt;
この後に続く三・四の項は異議があり撤回されたとのことだが、一・二は採用されたとのことである。&lt;br /&gt;
本当に第4期順位戦はチェスクロック方式で行われたのだろうか。&lt;br /&gt;
別の雑誌を見てみると、『将棋評論』にも記述があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;　今期順位戦は持時間を八時間と一時間の延長をしたがチエスオクロツクを使用するため一秒と雖も持時間の消費として計算されるので従来の一分将棋はなくなり終盤の指し手に要する時間を考慮して置かねばならない&lt;br /&gt;
順位戦新編成『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11207065/18&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋評論&lt;/a&gt;』1949年8月号&lt;/blockquote&gt;
やはりチェスクロック方式が採用されたようで、8時間切れ負けとして運用される手筈となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、実際に棋譜を見てみよう。&lt;br /&gt;
『王将』では、塚田正夫前名人が自戦記を４局掲載している。&lt;br /&gt;
まず、『王将』1949年10月号の「&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1827730/2&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;私の順位戰(一)」&lt;/a&gt; では、確かに持時間が各8時間である。&lt;br /&gt;
個別の指し手の消費時間はなく、開始時間と終了時間だけが記載されている。&lt;br /&gt;
この北楯戦の対局日は、6月30日である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
続いて『王将』1949年11月号の「&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1827731/2&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;私の順位戰(二)」&lt;/a&gt;も持時間は各8時間である。&lt;br /&gt;
が、個別の指し手に消費時間がついている。チェスクロック方式だとするとやや不可解である。&lt;br /&gt;
この原田戦の対局日は、8月12日である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして『王将』1949年12月号の「&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1827732/2&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;私の順位戰(三)」&lt;/a&gt;になると、持時間は各7時間30分になっている。&lt;br /&gt;
こちらにも、個別の指し手に消費時間がついている。&lt;br /&gt;
この五十嵐戦の対局日は9月10日である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に『王将』1950年1月号の「&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1827718/7&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;私の順位戰 終盤の力闘&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1827732/2&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;(四)&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1827718/7&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;」&lt;/a&gt;を読むと、持時間は7時間に戻っている。&lt;br /&gt;
完全に第3期以前と同じように対局しているように感じる。&lt;br /&gt;
この升田戦の対局日は不明だが、第五局とある。&lt;br /&gt;
五十嵐戦後に順位戦が一局あり、その後升田と指したようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
持時間が各8時間になった時期があることは間違いなく、6月頃はチェスクロック方式で指されたと思われるが、持時間の変遷や消費時間の記載などを考えるとチェスクロック方式が継続されていたとは考えづらい。&lt;br /&gt;
という訳で改めて『将棋とチェス』を見てみると、次のような記述があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;日本将棋連盟は昨年の順位戦ではじめてチエスクロツクを採用したが、終盤最後の緊要時に支障ありとして、最後の一分間となつてからは従来通り一分未満切捨制を再用(原文ﾏﾏ)した。そのうちチエスクロツクの故障続出などによつて一先づ之れが使用を廃して旧制に復して仕舞つた。時計の故障はいたし方もないがその他の理由は首肯し難い。チエスクロツクは将連がはじめて使用するのではない。チエスでは世界各国悉く之れを使用して居る。不慣れのための欠陥は慣れることによつて解消すべきである。チエスクロツク使用の効果は大きい。進んで之れを取り入れることを希望してやまぬ。&lt;span class=&quot;ILfuVd&quot;&gt;&lt;span class=&quot;hgKElc&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
中島富治「将棋夜話（その九）」『&lt;a href=&quot;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1838242/10&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋とチェス&lt;/a&gt;』1950年2月号&lt;/blockquote&gt;
なるほど。確かにチェスクロック方式は採用されたようであるが、結局廃止になったようである。&lt;br /&gt;
時代から考えて、時計の故障は仕方がないと思われる。&lt;br /&gt;
早すぎた制度だったと言えよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
整理しよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・第4期順位戦は、&lt;strong&gt;「持時間8時間チェスクロック方式切れ負け」&lt;/strong&gt;というルールで発表された。&lt;br /&gt;
・しかし、最終的には切れ負けではなく、現在のルールに合わせて表記すると&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;「持時間各7時間59分（チェスクロック使用）切れたら一手60秒未満」&lt;br /&gt;
&lt;/strong&gt; というルールで運用された。&lt;br /&gt;
・始まってみると、チェスクロックの故障が続出してスムーズな運用ができなかった。&lt;br /&gt;
・その結果ストップウォッチ形式に戻ることになり、持時間も8時間から7時間30分、7時間と漸次変更された。&lt;br /&gt;
・第5期以降は、第3期以前と同じく&lt;strong&gt;「持時間各7時間」&lt;/strong&gt;で指された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
という流れになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年はチェスクロックを採用する公式棋戦が増えている。&lt;br /&gt;
第81期順位戦においても、B級1組でチェスクロックが使用されることが発表された。&lt;br /&gt;
そんななか、将棋界におけるチェスクロック方式採用の原点として、73年前の試行錯誤に思いを馳せてみるのも面白いのではないだろうか。</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/kisen/ndldc</link> 
    </item>
    <item>
      <title>蛸島彰子女流六段の奨励会成績</title>
      <description>4月16日に第6回将棋文化検定のオンライン解答解説会が行われ、Aコースの解説をした浦野真彦八段に『駒我心』について触れていただきました。&lt;br /&gt;
購入した上で読んでいただいたということで、この場を借りて御礼申し上げあげます。&lt;br /&gt;
ありがとうございました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クラウドファンディングで作られた本でありますが、&lt;a href=&quot;https://lpsa-os.com/&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;LPSAオンラインショッピング&lt;/a&gt;で購入可能です。&lt;br /&gt;
蛸島彰子女流六段の足跡を辿るということは、女流棋士の歴史、女性と棋士の歴史を辿ることにも繋がっています。&lt;br /&gt;
今回初めて出た貴重な話や棋譜などをたくさん収録していますので、一人でも多くの人に読んでいただきたいと思っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浦野八段は、奨励会時代の蛸島彰子女流六段について、&lt;br /&gt;
「指し分けで昇級なのは甘いという人もいるが、奨励会はなかなか勝てない。半分勝つのは大変で、当時それで初段なのは凄いこと」&lt;br /&gt;
と話されていました。&lt;br /&gt;
初の女性奨励会員であった蛸島彰子女流六段の成績は、具体的にどうだったのでしょうか。&lt;br /&gt;
興味があって調べたのですが、以下の理由で、記録に正確性を欠いています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;・『将棋世界』誌上で星取表が掲載されず、成績が分からない時期がある。&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
特に、入品の時期の成績が4月4日の例会以外不明なのが惜しいです。&lt;br /&gt;
また、1962年3月には6級で指しているようですが、6級に昇級した時期が分かりません。&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;・全奨励会員の星取表の足し算が合わない場合がママある。&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
誤植なのか、それとも原本に不備があるのか。現在では確認のしようがありません。&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;・1963年12月以降は成績だけが掲載されており、星取の詳細が分からない。&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
また、1965年の7,8月と9,10月は二ヶ月合わせての成績となっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記録が不正確なため本には掲載できませんでしたが、良い機会と思いますので、『将棋世界』『近代将棋』『読売新聞』調べの蛸島彰子奨励会員の成績表をまとめたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;table border=&quot;2&quot;&gt;
&lt;tbody&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;2月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;3月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;4月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;5月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;6月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;7月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;8月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;9月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;10月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;11月&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;12月&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;1961年&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●●○&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;段級&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;10&quot;&gt;&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;2&quot;&gt;7級&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;1962年&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○○&lt;br /&gt;
○●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●●○&lt;br /&gt;
●○&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●●●&lt;br /&gt;
○&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○○&lt;br /&gt;
●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;(不明)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●持●&lt;br /&gt;
●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●●●&lt;br /&gt;
●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○●&lt;br /&gt;
○○●(昇)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●●○&lt;br /&gt;
●○●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;○○●&lt;br /&gt;
●○○(昇)&lt;br /&gt;
●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○○&lt;br /&gt;
●●●&lt;br /&gt;
●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;○●●&lt;br /&gt;
●&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;段級&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;2&quot;&gt;(昇級月不明瞭)&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;2&quot;&gt;6級&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;3&quot;&gt;5級&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;2&quot;&gt;4級&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;3&quot;&gt;3級&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;1963年&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○●&lt;br /&gt;
●●●&lt;br /&gt;
○&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○●&lt;br /&gt;
●●○&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;○(昇)●●&lt;br /&gt;
●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●●●&lt;br /&gt;
○●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○○&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●○(昇)●&lt;br /&gt;
●●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;○●●&lt;br /&gt;
●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;(不明)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●●●&lt;br /&gt;
●●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;○●●&lt;br /&gt;
●●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;●●●&lt;br /&gt;
●●&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝3敗&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;height: 19px; text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;段級&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;2&quot; style=&quot;height: 19px;&quot;&gt;3級&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;3&quot; style=&quot;height: 19px;&quot;&gt;2級&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;7&quot; style=&quot;height: 19px;&quot;&gt;1級&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;1964年&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝4敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝3敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝3敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝6敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝6敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝4敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝6敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝5敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝5敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝4敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝3敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝6敗&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;段級&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;12&quot;&gt;1級&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;1965年&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;(不明)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;(不明)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;(不明)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;(不明)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝5敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝5敗&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;2&quot;&gt;5勝5敗&lt;br /&gt;
(2ヶ月分)&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;2&quot;&gt;2勝10敗&lt;br /&gt;
(2ヶ月分)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝4敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝5敗&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;段級&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;12&quot;&gt;1級&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;1966年&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;1勝5敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;0勝6敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;(不明)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;3勝1敗&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;(不明)&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;休場&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;休場&lt;/td&gt;
&lt;td&gt;休場&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;4&quot;&gt;以下名前なし&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;td style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;
&lt;div&gt;段級&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;3&quot;&gt;1級&lt;/td&gt;
&lt;td colspan=&quot;5&quot;&gt;初段&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;/tbody&gt;
&lt;/table&gt;
註・星取表を3局で改行しているのはレイアウトの都合です。例会日で分けている訳ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1965年7・8月は『将棋世界』1966年1月号の成績表で5勝5敗となっていますが、この月の個人成績をすべて足すと97勝92敗で勝ち星が5つ多く、また、5勝5敗の星であれば昇段していることを考えると、5勝に関しては誤記している可能性が高いです。&lt;br /&gt;
そんなわけでこの成績表自体の信頼性が低いのですが、5勝5敗や3勝3敗といった指し分けの成績で昇級したことや、1級で大スランプに陥っていたことは分かります。&lt;br /&gt;
当時の環境や心境などについては、『駒我心』において、「一人ぼっちの奨励会」として宮田聖子さんが丁寧にまとめられています。&lt;br /&gt;
負けても負けても「練習100連敗」という父の言葉を胸に盤に挑み続けた蛸島彰子奨励会員の姿を、当時の写真と合わせてご覧いただければと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
購入は&amp;darr;こちらから&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://lpsa-os.com/SHOP/b009.html&quot; title=&quot;「駒我心 ～初代女流名人 蛸島彰子の歩み～」&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;img src=&quot;//demae.3rin.net/File/takojima_book_04.png&quot; alt=&quot;&quot; /&gt;&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/data/takojima</link> 
    </item>
    <item>
      <title>スポニチ紙面から見る第35期王将戦</title>
      <description>（初出『カクナリ！7』2021年7月　なお、一部に修正をしました）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　2020年度に70期となった王将戦を主催するスポーツニッポン新聞社は、「王将戦70年の歩み」という記念誌を出版する際、制作費を集めるためのクラウドファンディングを行いました。&lt;br /&gt;
　その返礼品のひとつとして、オリジナルフォトブックも制作されました。&lt;br /&gt;
いわゆる「勝者の罰ゲーム写真」を収録したもので、巻頭を飾ったのは、第35期に挑戦した中村修六段の第３局における写真です。&lt;br /&gt;
　王将戦は、第35期が大きな転換点となっています。&lt;br /&gt;
『スポーツニッポン』紙面に掲載されたタイムライン『「王将戦』24時』から、具体的に読み解いていこうと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;第１局第１日&lt;br /&gt;
08・02（中村）食堂で朝がゆ定食&lt;br /&gt;
08・10（中原）食堂へ。洋定食の朝食&lt;br /&gt;
12・35（中村）昼は中原と同じカレー&lt;br /&gt;
12・40（中原）食堂でカレーライス。アイスクリームも特注&lt;br /&gt;
20・05（中原）「少しやりますか」と娯楽室へ。麻雀です&lt;br /&gt;
21・10（中村）娯楽室で麻雀観戦&lt;br /&gt;
『スポーツニッポン』1986/1/17&lt;/blockquote&gt;
&lt;blockquote&gt;第１局第２日&lt;br /&gt;
10・00（中原）「ミネラルウォーターとホットミルクを」と注文&lt;br /&gt;
10・00（中村）「僕は何もいりません」&lt;br /&gt;
12・40（中原）食堂でナベ焼きウドン&lt;br /&gt;
12・40（中村）予定変更、自室でソバほとんど手つけず&lt;br /&gt;
18・15（中原）自室でポタージュ、カニコロッケたいらげる&lt;br /&gt;
18・20（中村）自室で雑炊に&amp;ldquo;挑戦&amp;rdquo;するが、食進まず&lt;br /&gt;
21・37（中原）「どうも、負けました」&lt;br /&gt;
21・37（中村）その瞬間「はぁ」信じられぬ表情&lt;br /&gt;
『スポーツニッポン』1986/1/18&lt;/blockquote&gt;
&lt;br /&gt;
　それまでの王将戦は、大山康晴・加藤一二三・中原誠といった健啖家と、それを意識した米長邦雄を中心に争われていました。チョコレートを６枚ペロリと平らげた加藤王将やカレーライスをお代りした大山王将が紙面を賑わせ、「形勢が良いと食欲が出る」という大山理論が王将戦を支配していました。しかし、第35期は、体調を崩し食が進まない中村六段が勝つ、波乱の幕開けになります。&lt;br /&gt;
　また、大山名人が麻雀好きだったこともあり、夜は対局者も卓を囲むのが王将戦の定跡でした。&lt;br /&gt;
中原王将はそれに倣って麻雀を打ちますが、中村六段は観戦が多くあまり打ちません。&lt;br /&gt;
　この「健啖な中原と少食な中村」「卓を囲む中原と眺める中村」という構図は、番勝負を通して見うけられます。中村六段は、あくまで自分のペースでタイトル戦に挑んでいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　続けて、第３局を見てみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;第３局第１日&lt;br /&gt;
09・13（中原）「ちょっと部屋の空気入れ替えましょうか」&lt;br /&gt;
09・13（中村）王将の言葉に&amp;ldquo;オーさむ&amp;rdquo;とジェスチャー&lt;br /&gt;
12・30（中村）中庭で撮影会「イメージが違うなあ」&lt;br /&gt;
13・40（中原）「私の辞書に千日手はない」６分後千日手に&lt;br /&gt;
13・46（中村）千日手成立。普通の顔&lt;br /&gt;
18・20（中原）「忙しそうだねえ」とスポニチ取材室を急襲&lt;br /&gt;
20・30（中村）週刊誌の取材。「またヤラセの写真とるかな。」&lt;br /&gt;
『スポーツニッポン』1986/2/4&lt;/blockquote&gt;
&lt;br /&gt;
　記者と会話を楽しむなど旧来の定跡をなぞる中原王将に対して、盤上盤外ともマイペースな中村六段が実に対照的です。&lt;br /&gt;
　取材を受けた中村六段の「イメージが違うなあ」「ヤラセの写真」といった言葉にも注目しながら、引き続き２日目を見ましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;第３局第２日&lt;br /&gt;
12・40（中原）自室で名物伊勢ウドン「外は暖かいかな？」&lt;br /&gt;
12・50（中村）薄味肉ウドンとご飯を自室で。食慾おう盛&lt;br /&gt;
19・23（中原）「じゃあ、やりましょうか」&amp;ldquo;麻雀部屋&amp;rdquo;へ&lt;br /&gt;
20・10（中村）週刊誌取材「今夜はインタビューだけかな」&lt;br /&gt;
21・45（中村）「ここへ来て風呂入るの初めて」と大浴場へ&lt;br /&gt;
『スポーツニッポン』1986/2/5&lt;/blockquote&gt;
&lt;br /&gt;
　冒頭で触れたフォトブックの写真は、２日目夜に撮影された大浴場での入浴写真です。&lt;br /&gt;
週刊誌のカメラマンからは&lt;br /&gt;
「写真を撮るのでテレビゲームをやってくれとか、今朝も和服で海岸に立ってほしい」&lt;br /&gt;
とも言われたと、対局翌日に『将棋世界』から受けた取材で答えています。&lt;br /&gt;
　この対局が、「勝者の罰ゲーム写真」の原点になるのかもしれません。&lt;br /&gt;
グラビアを飾るような面白い写真を、23歳の若き挑戦者には頼みやすかったのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この番勝負の決着局となった、第６局を最後に見てみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;第６局第１日&lt;br /&gt;
08・05（中村）食堂で富士を背に着席し「しまった」&lt;br /&gt;
08・25（中原）ハムエッグ食べながら「豪快ですね」富士の眺めにウットリ&lt;br /&gt;
12・45（中原）天ぷらそばとオレンジのデザートをペロリ&lt;br /&gt;
12・45（中村）昼食は自室でゆかたに着替えて天ぷらそば&lt;br /&gt;
『スポーツニッポン』1986/3/14&lt;/blockquote&gt;
&lt;br /&gt;
　第６局でも、健啖な中原王将にマイペースな中村六段という構図は変わりません。&lt;br /&gt;
それが極まるのが２日目です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;第６局第２日&lt;br /&gt;
07・25（中原）目覚ましブザーで起床&lt;br /&gt;
08・42（中村）取材の電話で起こされ「え？いま何時？」&lt;br /&gt;
08・54（中村）ゆう然と対局室へ&lt;br /&gt;
09・05（中村）うまそうに&amp;ldquo;心づくし&amp;rdquo;のコーヒー飲む&lt;br /&gt;
10・00（中村）お次はチーズケーキとホットミルク&lt;br /&gt;
10・25（中原）メガネはずして、しばし黙祷？&lt;br /&gt;
20・30（中村）笑顔で打ち上げパーティーへ&lt;br /&gt;
20・45（中原）「じゃあ、やりましょうか」と娯楽室へ、最後の晩ももちろん麻雀&lt;br /&gt;
『スポーツニッポン』1986/3/15&lt;/blockquote&gt;
&lt;br /&gt;
　目覚ましで起床した中原王将に対し、中村六段は寝坊してスポニチ記者に起こされています。&lt;br /&gt;
朝食を食べそこねた中村六段のためにホテル側がコーヒー、チーズケーキ、ミルクを用意したのですが、中原王将にも同じものが運ばれてきたため、中原王将はキョトンとしていたというエピソードもあります。最後まで中原王将はペースを乱された格好で、中村六段が王将位を獲得しました。&lt;br /&gt;
　対局翌日に中村新王将が雪かきをした写真は、『将棋世界』のグラビアを飾りました。&lt;br /&gt;
タイトルホルダーのフランクな姿が新風を吹かせます。&lt;br /&gt;
　第36期でリターンマッチを挑んだ中原名人相手に中村王将が防衛すると、挑戦者の顔ぶれは、南芳一棋聖、島朗竜王といった55年組のタイトルホルダーに変わります。&lt;br /&gt;
若手棋士の写真が新聞や雑誌に載り、王将戦の空気も変わっていきました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　中村修六段への取材で撮られた「ヤラセの写真」は、「勝者の罰ゲーム写真」に成長しながら、棋士の新たな一面を引き出していきます。第35期王将戦は、王将戦のみならず、「観る将棋」の歴史を考えるにあたって、大きな転換点と言えましょう。</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/kisen/35oushou</link> 
    </item>
    <item>
      <title>国立国会図書館の歩き方</title>
      <description>（初出『カクナリ！5』2019年12月　なお、一部に修正をしました）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;a href=&quot;http://demae.3rin.net/other/digit&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋考古学沼への誘い&lt;/a&gt;で「将棋考古学沼」にお誘いしましたが、普段どのように資料を掘っているのか、今回は紹介したいと思います。&lt;br /&gt;
新聞資料の閲覧ができる施設は多くありますが、国立国会図書館東京本館（以下国会図書館）が所蔵資料数において優っており、銀杏記者が中継ブログで「&lt;a href=&quot;https://kifulog.shogi.or.jp/kisei/2018/07/post-7872.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋の調べものにおすすめ&lt;/a&gt;」と触れたこともありましたので、国会図書館を例に挙げます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　なお、国会図書館は18歳以上の人であれば誰でも利用できます。&lt;br /&gt;
犬などの動物は無理なようですが、人間に擬態したタルトは潜り込んでいるようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　入口は本館と新館の２ヶ所あります。お薦めは新館です。&lt;br /&gt;
通常のロッカーは少し小さいので大型ロッカーを使いたいのですが、本館から入場する人が多く、新館に空きがあることが多いためです。&lt;br /&gt;
本館の大型ロッカーはコイン式のため、係員に声をかける必要もあります。&lt;br /&gt;
国会図書館は基本的にタイムアタックなので、声掛けをする一分一秒でも時間を浪費するのが惜しいです。&lt;br /&gt;
新聞資料室が新館にあるということもありますし、新館側から入りましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　国会図書館で新聞資料を閲覧するには、３つの方法があります。&lt;br /&gt;
①&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;利用者用端末でデータベースを開き、デジタル資料を見る&lt;br /&gt;
②&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;新聞資料室の開架資料を閲覧する&lt;br /&gt;
③&amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;新聞資料室で書庫内資料を請求して閲覧する&lt;br /&gt;
　将棋考古学の分野では主に③でマイクロフィルムを閲覧することになるのですが、①や②も重要なことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&lt;a href=&quot;http://kenyu1234.php.xdomain.jp/&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;将棋棋士成績ＤＢ&lt;/a&gt;」の観戦記検索機能で調べると、2019年10月現在、『朝日新聞』『読売新聞』『毎日新聞』の三大紙であってもデータが揃っていません。&lt;br /&gt;
ＤＢ上で戦型欄が空白なものは、採譜もされていないものです。&lt;br /&gt;
手をつけて下さる方がいれば、とてもありがたいです。&lt;br /&gt;
最初から先史を調べるのは大変なので、こうした有史を①や②で閲覧することから始めて、慣れた頃に③に移るのがよいでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　問題は③です。&lt;br /&gt;
国会図書館では大部分の資料が書庫にあり、端末で資料を請求した後、届くまで15分弱待たなくてはいけません。&lt;br /&gt;
このロスをどれだけ減らせるかが勝負の分れ目です。&lt;br /&gt;
ここで大事なのは、国会図書館に着いてから閲覧資料を探しているようでは話にならない、ということです。&lt;br /&gt;
着いてから徐に検索を始めている人が多く見られますが、閉館時間は待ってくれません。&lt;br /&gt;
「国立国会図書館オンライン」は館外でも使え、閲覧申込カートに入れる所までは自宅でもできます。&lt;br /&gt;
閲覧したいものを事前にまとめてカートに入れることで、検索する時間を省略しましょう。&lt;br /&gt;
国会図書館での戦いは、自宅にいる時から既に始まっているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新聞資料室は４階ですが、入場してすぐスマートフォン等で資料の閲覧申込を行えば、端末にログインする時間と４階に上がる時間を短縮できます。&lt;br /&gt;
こうした細かい工夫が大切になります。&lt;br /&gt;
理論上は、荷物を外に置いて入場し、申込をしてから一旦退場してロッカーに荷物を預けるのが最善です。&lt;br /&gt;
ただし、警備員に不審者を見るような怪訝な顔をされるので、お薦めはしません。&lt;br /&gt;
資料が到着した時の案内はありませんが、端末にログインしていると、到着した際に通知が入ります。&lt;br /&gt;
新聞資料室に入ってから端末にログインし、将棋関連のデジタル資料を読みながら到着を待つのが味の良い手です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　到着した資料を受け取れば、いよいよ閲覧です。&lt;br /&gt;
原紙や縮刷版などの資料はそのまま読めばいいのですが、マイクロフィルムの場合は専用のリーダーを使わなくてはいけません。&lt;br /&gt;
リーダーにはアナログとデジタルの二種類あります。&lt;br /&gt;
国会図書館の職員に聞くと複写が楽なデジタルでの閲覧を薦められますが、私のお薦めはアナログです。&lt;br /&gt;
デジタルはピント合わせで時間を取られるため、アナログの方が早いためです。&lt;br /&gt;
一面につき数秒の違いですが、一年分で考えると数十分のロスになります。&lt;br /&gt;
ただし、アナログのリーダーにはピント調節機能が壊れているものがままあります。&lt;br /&gt;
つまみを少し動かしてみて、勝手に戻ってしまうものは壊れています。&lt;br /&gt;
別のリーダーを利用しましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新聞を閲覧しながら、観戦記を読んで掲載状況のメモや採譜をひたすらしていきます。&lt;br /&gt;
とにかく時間がかかる作業です。&lt;br /&gt;
一年分読むのに２時間強、採譜もすると一局につき５分以上更にかかります。&lt;br /&gt;
資料請求は閉館の１時間前に終わるので、一分一秒が大切になってきます。&lt;br /&gt;
国会図書館は、リアルタイムアタックなのです。&lt;br /&gt;
読んでいると、何処かでグルグルとハンドルを回す音が聞こえてくるでしょう。&lt;br /&gt;
それは、同志がリールと格闘している音です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　一度に３点しか借りられないため、読んで返して読んで返して&amp;hellip;&amp;hellip;という作業を閉館まで繰り返すのですが、資料請求後の15分をどうするか、再度考える必要があります。&lt;br /&gt;
待ち時間に食事や資料の複写をするのがよくある手ですが、もう少し効率良く行動したいです。&lt;br /&gt;
読んだ資料を返却し、空いた点数分を請求して待つ間に残りを読み進める方法が最善手でしょうか。&lt;br /&gt;
これを繰り返せば、閉館まで待ち時間なしで資料を読み続ける永久機関が誕生します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ただし、新聞資料とは別に図書を３点、雑誌を10点借りられるため、それらを複合して活用することでそれぞれの待ち時間をなくす手もあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私の最近のトレンドは漫画です。例えば図書で『将棋めし』を借り、雑誌で『コミックフラッパー』を借ります。&lt;br /&gt;
新聞資料の到着が一番早いのでまず新聞を閲覧し、一度新聞資料の返却と申込をした後、それぞれのカウンターで『将棋めし』と『コミックフラッパー』を受取ります。&lt;br /&gt;
そして待ち時間に『将棋めし』を広げ&lt;br /&gt;
「なゆた可愛い！」&lt;br /&gt;
「このコマの杜谷の眉毛関数は高い！」&lt;br /&gt;
などと読んでいれば、資料はいつの間にか到着しているはずです。&lt;br /&gt;
雑誌も請求するのがポイントで、読み比べることで加筆や修正された所が分かり、&lt;br /&gt;
「この古丹波はなぜ可愛くなったのか」&lt;br /&gt;
「お馬ちゃんの毛色が修正された意味は？」&lt;br /&gt;
といったことを色々考えることができます。&lt;br /&gt;
同様のことは、『盤上の詰みと罰』と『コミックハイ！』の他、あらゆる将棋漫画で行えます。&lt;br /&gt;
漫画を楽しく読みすぎてしまい気づいたら閉館時間になる、という頓死筋が常にありますので、それには十分注意しましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　自分なりの攻略法を見つけ、充実した国会図書館ライフを送りましょう。&lt;br /&gt;
国会図書館及び「将棋考古学沼」は、いつでもあなたをお待ちしています。</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/other/ndl</link> 
    </item>
    <item>
      <title>将棋の記録の取り扱いについて考える</title>
      <description>&lt;blockquote class=&quot;twitter-tweet&quot;&gt;
&lt;p dir=&quot;ltr&quot; lang=&quot;ja&quot;&gt;【同人誌刊行のお知らせ】&lt;br /&gt;
『 不撓 ー忘れられた棋士、松田辰雄八段の記録 』&lt;br /&gt;
発行：将棋史学同人&lt;br /&gt;
執筆者：石川陽生七段、小笠原輝、君島俊介、けんゆう（五十音順）&lt;br /&gt;
表紙画『顕現』：松本渚&lt;br /&gt;
2020年2月4日 刊行&lt;br /&gt;
A5判・162頁・全頁モノクロ&lt;br /&gt;
本体2,000円　発送の場合は送料200円 &lt;a href=&quot;https://t.co/JFIEwY9nQu&quot;&gt;pic.twitter.com/JFIEwY9nQu&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&amp;mdash; 田代深子 (@rieko_w) &lt;a href=&quot;https://twitter.com/rieko_w/status/1224478423218704384?ref_src=twsrc%5Etfw&quot;&gt;February 3, 2020&lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;script async=&quot;&quot; src=&quot;https://platform.twitter.com/widgets.js&quot; charset=&quot;utf-8&quot; type=&quot;text/javascript&quot;&gt;&lt;/script&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
松田辰雄八段についてまとめた『不撓』を出してから一年経った。&lt;br /&gt;
随分と昔のように感じる。&lt;br /&gt;
2月29日には刊行記念のイベントを行ったのであるが、開催できたのも運が良かったと今は思える。&lt;br /&gt;
ほとんど研究発表の場になってしまったが、参加者の鋭い質問も多く、とても楽しい時間を過ごせた。&lt;br /&gt;
心置きなく戦後黎明期の将棋話ができる空間を、また共有したいものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、イベントの際、棋譜を掲載するにあたって私とけんゆうさんでは主義が違う、との話になった。&lt;br /&gt;
当時の観戦記では駒が成不成を省略して書かれていることが多く、そうした棋譜を収録するにあたり、&lt;br /&gt;
「原本記載通りに載せた方がいいのではないか」&lt;br /&gt;
と私が主張したのに対して、けんゆうさんが&lt;br /&gt;
「不成をつけない棋譜は今は棋譜にならない。成不成がついていない観戦記は、棋譜として成立させるために成不成どちらか妥当なものを載せる」&lt;br /&gt;
と主張していたからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的に『不撓』内では
&lt;blockquote&gt;・ 原本の不備・欠損等により符号が確定しえない指し手には、編者らが妥当であると考える符号を補足し、傍線を付した。&lt;/blockquote&gt;
と註釈を入れた上で、成不成の符号をいれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この２人の見解の相違は「記録を扱うにあたって何がより確からしいか」に対する考え方の違いであって、どちらかが間違ってるというわけではない。&lt;br /&gt;
ただし、記録をどう整理するかを考えるのは、大事な所である。&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: 11pt; font-family: Arial; color: #000000; background-color: transparent; font-weight: 400; font-style: normal; font-variant: normal; text-decoration: none; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;&quot; id=&quot;docs-internal-guid-e388565c-7fff-c571-99cb-427b6d818933&quot;&gt;別のプロスポーツで&lt;/span&gt;実際にあったケースを挙げながら、今回考えてみたいと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記録を大事にしているスポーツのひとつが、プロ野球だ。&lt;br /&gt;
そのプロ野球で、「投手のシーズン最多勝利記録」が問題になったことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スタルヒンが1939年に42勝の最多勝記録を作ったのだが、戦後記録の見直しをした際、当時の記録員の認定におかしい所があるとして、2勝減らし、40勝と記録を一度修正した。&lt;br /&gt;
戦後しばらくはこの40勝が最多勝利として認定されていたのであるが、1961年に稲尾和久が42勝を達成し、当時の新記録を達成。その際、スタルヒンの記録が改めて議論となった。&lt;br /&gt;
最終的には&lt;br /&gt;
「あとから見ておかしなものでも当時の記録員の判断に従うべき」&lt;br /&gt;
というコミッショナー裁定が下り、スタルヒンと稲尾和久の42勝が最多勝利数タイ記録と認定されて、現在に至っている。&lt;br /&gt;
参考：ウィキペディア &lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%92%E3%83%B3#1939%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9%E6%95%B0%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;ヴィクトル・スタルヒン#1939年の勝利数について&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この件は、記録に対する考え方の違いからきた問題である。&lt;br /&gt;
パ・リーグの記録部長だった山内以九士は、&lt;br /&gt;
「過去から現在を通じて記録としておかしくないものを整理するべき」&lt;br /&gt;
と考えて修正をした。&lt;br /&gt;
コミッショナーの内村祐之は、&lt;br /&gt;
「あくまで当時の記録を尊重すべき」&lt;br /&gt;
と考えて裁定を下した。&lt;br /&gt;
どちらも間違ったものではないが、記録の一貫性を保つためには、判断をださなくてはならない。&lt;br /&gt;
結果的に野球では、今では間違った記録の付け方をしていた場合でも、当時付けられた記録を基に記録を整理している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将棋の記録で言えば、私の立場は内村祐之で、けんゆうさんの立場は山内以九士ということになる。&lt;br /&gt;
これが野球なら私の立場が通るのであるが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・将棋は野球ではない&lt;br /&gt;
・スコアブックは残っているが、棋譜の記録は消失しており原本が確認できない&lt;br /&gt;
・将棋の記録の取り扱いに対して、公式見解が出ていない&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といった理由により、そのまま将棋に援用してしまうことはできないとは思っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
けんゆうさんとの間で議論となっている事は他にもあるのだが、すべてこうした記録に対する考え方の違いからきている。&lt;br /&gt;
例えば、『日東新聞』が主催した「新鋭棋士若獅子杯爭奪戦」という棋戦がある。&lt;br /&gt;
※日東新聞の観戦記情報は&lt;a href=&quot;https://docs.google.com/spreadsheets/d/16issipP9p5zkhTDvH1lWA6s3xyxXSAUzl7hhlXJ5dPk/edit?usp=sharing&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;こちら&lt;/a&gt;から。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奨励会員とC級棋士の対抗戦なのだが、この棋戦を公式戦として取り扱うかどうかで、私とけんゆうさんでは見解が分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「当時の『近代将棋』や『文藝春秋』ではこの将棋が他の棋戦と同様に扱われており、山田道美九段が付けた日記で成績に算入されてもいるので、公式戦である」&lt;br /&gt;
とするのが私の立場で、&lt;br /&gt;
「プロの棋戦に奨励会員が混ざるのではなく、四段と奨励会員が対局する棋戦であるので、今の目線で見ると公式戦ではない」&lt;br /&gt;
とするのがけんゆうさんの立場である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
より確からしい記録に対するふたりの解釈が異なっており、ふたりの間では解決する問題ではない。&lt;br /&gt;
また、当時の日本将棋連盟はタイトル戦を&amp;rdquo;公式戦&amp;rdquo;、それ以外の新聞棋戦を&quot;自由棋戦&quot;としており、今の公式戦の定義とは違っているため、すんなりと解決もできない。&lt;br /&gt;
（なお、当時の自由棋戦は、現在では公式戦として取り扱われている将棋が&quot;ほとんど&quot;である）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公式見解がない以上、これからもふたりの間でこの議論は平行線であろう。&lt;br /&gt;
ただし、議論をすることそのものは有意義であるとも思っている。&lt;br /&gt;
将棋の記録に興味を持たれる方は、将棋の記録をどう取り扱うのがより確からしいか、一度考えてみるのはいかがだろうか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;余談&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
ちなみに、イベント中に質問があった「記録係が正確に時間を記録していないかもしれない問題」については、『将棋名人戦全集』で見解が出ている。&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;『将棋名人戦全集』編集にあたって&lt;br /&gt;
⦿指し手の下の洋数字はその一手に消費した時間（分）ですが、そろばんをいれて合計した数が一局の総消費時間と合致しない棋譜が、ときたまあります。修正してつじつまを合わせることはかえって不正確となるので、そのままにしました。&lt;/blockquote&gt;
『不撓』の掲載譜についても、消費時間と総消費時間が合わない観戦記については、同じ方針で棋譜を掲載している。&lt;br /&gt;
このポリシーに則れば、棋譜の符号も修正するのはかえって不正確になるのではないか、と考えるのが私の立場である（異論は認める）。</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/data/kiroku</link> 
    </item>
    <item>
      <title>将棋棋士の同人誌を出します</title>
      <description>松田辰雄八段、という棋士を題材にした同人誌を来月出します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;

&lt;blockquote class=&quot;twitter-tweet&quot;&gt;
&lt;p dir=&quot;ltr&quot; lang=&quot;ja&quot;&gt;【同人誌刊行のお知らせ】&lt;br /&gt;
2020年2月4日 刊行予定&lt;br /&gt;
『 不撓 ー忘れられた棋士、松田辰雄八段の記録 』&lt;br /&gt;
発行：将棋史学同人&lt;br /&gt;
執筆者：石川陽生七段、小笠原輝、君島俊介、けんゆう（五十音順）&lt;br /&gt;
表紙画『顕現』：松本渚&lt;br /&gt;
A5判・162頁・全頁モノクロ&lt;br /&gt;
本体2,000円　発送の場合は送料200円 &lt;a href=&quot;https://t.co/mATShDkFx6&quot;&gt;pic.twitter.com/mATShDkFx6&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&amp;mdash; 田代深子 (@rieko_w) &lt;a href=&quot;https://twitter.com/rieko_w/status/1218334661312536576?ref_src=twsrc%5Etfw&quot;&gt;January 18, 2020&lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;script async=&quot;&quot; src=&quot;https://platform.twitter.com/widgets.js&quot; charset=&quot;utf-8&quot; type=&quot;text/javascript&quot;&gt;&lt;/script&gt;
&lt;br /&gt;
1934年から1952年にかけて活動した棋士を、けんゆうさんと私が調べた資料を基に本にしました。&lt;br /&gt;
成績の整理をけんゆうさんに任せ（というか苦手な分野を押し付け）、戦後の奈良県アマチュア将棋界と松田との関わりを私は担当しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
松田は、ファンがあって棋士が存在するものと考えていました。&lt;br /&gt;
そして、棋士として良い棋譜を作ることが使命であるとともに、何も知らない一般の人を教えたり強くしたりすることも大事だと考えていました。&lt;br /&gt;
そんな松田が実際にどのように普及をしていたか、また、それがどう現在に繋がっているかをまとめています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の方の内容は&lt;br /&gt;
・けんゆうさんのレーティングを含めた成績まとめ&lt;br /&gt;
・石川陽生七段の丁寧な棋譜解説&lt;br /&gt;
・君島俊介さんによる熱い序盤戦術解説&lt;br /&gt;
・松本渚先生の松田辰雄八段を最高の形で現した表紙画&lt;br /&gt;
といったもので、みなさんがプロフェッショナルな仕事をしています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
個人的には、「関連記事集」がオススメです。&lt;br /&gt;
松田自身の筆から、本人の人となりを感じてください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冊子は下記リンクから購入予約ができます。&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScIAWxrKev0zbz4x0yXfQdXhGHB3qseE5qksBTqjsU68y5h_g/viewform&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;【冊子購入予約】不撓―忘れられた棋士、松田辰雄八段の記録―&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もうひとつ。&lt;br /&gt;
本の刊行に関連して、2月29日（土）にトークイベントを行うことにもなりました。&lt;br /&gt;
トークイベントの詳細については、下記リンクを参照してください。&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScs7eBdxj1RaA1ePvE40d8jF7GkB4fay6GxctqEA3aU7PXjDw/viewform&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;【参加申込】「不撓」刊行記念トークイベント「松田辰雄八段とその時代」&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
君島さん、けんゆうさん、私が、それぞれ自分の専門分野の話をすることになっています。&lt;br /&gt;
座談会のほうは詳細が決まっていないのですが、本の製作や調査に関連したことなど、本では書けない話題になるのではと考えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『不撓』を読んでいると、さまざまな発見があるはずです。&lt;br /&gt;
それは、調べながら私たち自身が初めて知り、興奮したものです。&lt;br /&gt;
「まさかこうだったのか！」「この時代にこの視点が！」&lt;br /&gt;
といった私の興奮を、他の人にも伝えたいと思いながら書きました。&lt;br /&gt;
後は、一人でも多くの人の眼に留まることを祈るだけです。&lt;br /&gt;
興味を持たれ方は、よろしくお願いします。</description> 
      <link>http://demae.3rin.net/other/matsudatatsuo</link> 
    </item>

  </channel>
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