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将棋棋士の食事とおやつ出張所

91年前の見る将棋論から

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91年前の見る将棋論から

(初出:『将棋ペン倶楽部第78号 2022年・秋』)
※国立国会図書館デジタルコレクションのリンクを張るなど、一部に修正をしました。


 現在の将棋ブームがこれまでと違うのは、将棋を観るファン、所謂「観る将」が顕在化したことである。観る将のなかには、将棋のルールを知らないようなファンもいるとのことだ。
 そんな観る将にも将棋を指してもらおうという流れが一部にあり、『将棋ペン倶楽部通信』59号においてもそうしたタイトルの記事が2つ見られる。しかし、「観る将から指す将へ」とする流れは、将棋界が、そして将棋ペンクラブが目指す所なのだろうか。
 日本で最初のジャーナリズム・マス・コミュニケーションの講座である『総合ヂャーナリズム講座』(内外社・全十二巻)の五巻には、観戦記者の草分けである菅谷北斗星の書いた「將棋の記事に就いて」という項がある。これは、日本で最初に将棋記事・観戦記を研究した文章である。今回は、91年前の1931年に北斗星が発表したテクストを読みながら、「将棋を見る」こと、また、「文章を通じての将棋ファン拡大」について考えてみたい。

 なぜ観戦記者が誕生したのか。それについて北斗星は、「畢竟将棋は指すものであり、見るものではない、との不滿の聲が絕えなかつた」からであるとしている。そのような不満の声を、「積極的に新聞社――編輯部の手が動いて、將棋記事を一ツのニユウスとして扱つては如何といふことになり、最初に「讀賣」が手をつけ、對局を棋士の手から記者の手に受け取り、これを將棋記事として、發表すること」によって解決しようとした。これが観戦記者による観戦記の始まりである。
 注目したいのは、91年前に既に「将棋は指すもの」という言説があり、それに対するアンチテーゼとして観戦記者が誕生したということだ。将棋の文章は、将棋を“見る”ためのツールとして出発した。北斗星は、「將棋の讀物化! これが今日の第三期に該當する將棋欄の現狀である」と続ける。遊戯としての将棋は指すことでしか成立しないが、読物のように“見る”ことで将棋の魅力を伝えようと試みたのが、将棋の文章なのだ。

 では、具体的にどう将棋を読物化したのか。北斗星は野球ファン・競馬ファン・文学青年といった各種のファンが求めているものを考え、「フアンの通有性として、自分達の目標とするものゝゴシツプであらう」と結論付けた。そして、このゴシップを、「重要な適藥」として観戦記に取り入れていった。
「ゴシツプ的興味は、一般フアンの通有性といふより、近代人の汎く持つ特質かも知れないが、文學靑年が菊池寛の作物それ自體に興味を持つ以上に、菊池寛の生活餘事により以上の興味を持ち、これを探索し吹聴して得々としてゐる様に、将棋フアンは同じく土居八段、木村八段の身邊雜事に異常の興味を持つてゐるのである。」とした北斗星は、その具体例として、木村八段がフケで困っていることを書いたら数人の読者からフケ取りの妙薬が届いたことを挙げている。フケの薬は、将棋の指し手とは全く関係のないものだ。91年前の将棋ファンも、今の観る将と同じく、盤面だけでなくその周辺に興味を持っていたことがわかる。顔、仕草、服、食事のメニューといった棋士のゴシップは、将棋ファンが昔から潜在的に求めていたものだったのだ。それを喝破し記述を心掛けた事が、それまでの「無味乾燥、生硬蕪雑」であった将棋記事を読物化することに成功し、北斗星を観戦記者の草分けとたらしめた。

 そして、北斗星などによるこうした観戦記が始まるようになってから、将棋界は発展していく。北斗星が観戦記を書き始めた昭和2年に読売新聞社は東西將棋八段優勝手合の掲載を始め、この時対局料が倍以上に上がった。その後他紙もこうした観戦記を掲載するようになり、その結果、新聞社から契約金が入り棋士は潤い、新聞を通じて将棋ファンも増えていった。その中には、将棋を知らない読者もいたようだ。ここでは、北斗星と並んで黎明期の観戦記者として知られる倉島竹二郎(当初のPNは棋狂子)の観戦記に対する読者投稿を紹介したい。

 棋狂子の觀戦記は近來の讀み物です。小生は餘り將棋の事は知らず從つて興味もなかつたのですが、今度は知らず〳〵讀まされました。まるで連載小説のやうに明日が待たれます。
『國民新聞』「讀者の聲」1932年9月4日付
 倉島は、対局中の食事、所謂「将棋めし」を初めて記述した人物であり、北斗星と同じくゴシップを観戦記のなかで効果的に使用している。そうした観戦記が、将棋を知らず、興味もない読者を将棋ファンにしている。黎明期の観戦記者たちがゴシップを重視したことは、重要なことである。将棋の普及にあたり、ゴシップが果たした役割は非常に大きなものであると言えよう。
「フアンの持つゴシツプ的興味を巧みに記事に捕へなければ嘘だと思ふ。一ツのゴシツプ的記事が、妙手奇手の解説より、どれほど讀者の興味を引くことか! 私は數多くこれを經驗してゐる。」とした北斗星が、観る将が顕在化した今の将棋界を見たらどう思うだろうか。我が意を得たり、と喜んでいないだろうか。将棋のルールを知らず興味がなかった人にも将棋に親しんでもらうことこそが将棋の普及であり、北斗星が目指していたものであり、そして、文章を通じての将棋ファン拡大と言えるのではないか。

 さて、91年前には既に北斗星が将棋を見せるための文章を書き始めており、90年前には将棋を知らない将棋ファンがいたことも分かったが、冒頭で「観る将が顕在化した」と書いたように、今まで観る将は認知されてこなかった。なぜだろうか。それは、「将棋ファンとは将棋を指す人のことだ」という認識が将棋界内外で共有されていたからではないか。
『将棋世界』1984年2月号の「声の団地」において、「拝啓 倉島竹二郎様」という、女性の投稿がある。「将棋そのものは、ほとんど知らない私が、これほどまで魅力を覚えるようになったのも、主人の影響も有るのですが、倉島竹二郎氏の純文学と断言出来るほどすばらしい観戦記を知ってからなのです。」と綴る彼女の投稿は、倉島の観戦記を通じて、将棋を観る魅力を語ったものである。連盟機関誌に投稿する熱量もあり、今の目線で見ると立派に将棋ファンにカテゴライズされるべき人であるが、彼女は冒頭で「棋譜の部分を抜かして読むのですから、正確には、将棋人口の内へは入れてもらえない部類に属するのでしょう。」と前置きを入れている。つまり、彼女自身は自分を将棋ファンだとは思っていないのだ。なぜならば、将棋を指せないから。将棋ファンが自分を将棋ファンであると認識できないのは、非常に悲しいことである。「畢竟将棋は指すもの」という将棋界に昔からある考え方が、本来は普及できていたはずの潜在的な将棋ファンに対して、将棋の普及を阻害していなかっただろうか。

 観る将は将棋を指したいのではない。ただ将棋を楽しみたいのだ。そして、ゴシップを通じて将棋を観ることに楽しみを感じている。互いに認め合うということは、相手の価値観を尊重するということである。たとえ理解できなくても、相手を尊重して自らの考えを押しつけないことが大切だ。それが、互いに認め合う第一歩なのだから。
 北斗星は、

 將棋の讀物化を目射す以上、外の一般百パーセントの興味を狙ふ連載物と同巧異曲である。
 要約するに、私は將棋の大衆文藝を書く積りで筆を採ることが第一であると思ふ。双方の駒をススメ、それ〴〵敵玉の奪ひ合ひ、陣立、合戰、寄せ具合、一局一篇の大衆文藝でなくて何であらう。
 と原稿を結んでいる。

 プロ将棋は大衆文芸なのである。観て楽しみ、読んで楽しむものであって、自分が遊戯に参加するものではない。そして遊戯への参加を強制されるものでもない。そこでは、男女の区別や棋力のあるなしは問われない。あらゆる層に将棋に興味を持ってもらうこと、親しんでもらえるように努めることこそが、将棋の普及である。
観る将が顕在化し、将棋文化のひとつとして成立した現在は、そうした指さない層にいかに興味を持ち続けられる読物を届けていくかが、以前にも増して重要になっている。将棋ペンクラブの「文章を通じての将棋ファン拡大とライターの発掘、養成をはかること」という目的は、今こそ大切にしなくてはいけない考え方だ。将棋ペンクラブは、あくまで文章を通じての将棋ファン拡大を目指すべきである。

 最後に、今回の話題をまとめる。91年前に菅谷北斗星が目指したのは「将棋を読物化して将棋を見るファンを増やす」ことであり、そうした層が増えていくことによって将棋界は発展していった。そして、「観る将」が定着した現在は、北斗星が目指してきた世界のひとつの到達点である。将棋界や将棋ペンクラブが目指す所は、将棋を指すファンを増やすことではなく、「文章を通じての将棋ファン拡大」ではないか。指さなくても文章を通じて将棋に親しむ観る将が増えることで、将棋界の未来が明るくなるものと私は考える。

参考文献
菅谷北斗星「將棋の記事に就いて」『綜合ヂャーナリズム講座』第五巻、内外社、1931年
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将棋棋士の食事とおやつに関する話だったが、将棋考古学沼ネタもこちらで。

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