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将棋棋士の食事とおやつ出張所

消えた将棋の天才、藤井少年

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消えた将棋の天才、藤井少年

(初出『カクナリ!8』2022年10月 ブログ記事化にあたり、一部に修正をしました)
(註・『将棋評論』『将棋月報』のリンクは、国立国会図書館デジタルコレクションより)

 私は趣味で、1945年以前に海外で発行された新聞の将棋欄を調べています。基本的には日本語新聞を読んでいるのですが、朝鮮総督府の機関紙として発行されていたハングルの『毎日新報』を眺めていた所、1940年9月28日付紙面で、「將棋의天才兒出現」という記事がありました。


 親切な方に翻訳していただき、詳細が分かりました。要約すると、「十七歳の藤井朗少年は、小児麻痺を患い二本の脚を使えなくなったが、家にいる間に将棋を学び始めた結果「將棋の天才」と言われるようになり、萩原淳八段の門下になった」という内容のようです。
 萩原淳八段門下の小児麻痺の少年ということを知り、私は 、菅谷北斗星が「消えた本物の天才」ととその才能を惜しんだT少年を思い出しました。

 日支事變がまだ太平洋戰争に突入しない前であつた。神奈川縣長後町の相模殖産學校長の渡邊信雄氏が、是非見て貰いたい少年があるからと、牛込神樂坂の某旗亭に私を招待した。
 私は萩原八段と伴れ立つてでかけて行つた。手厚い饗宴に預つた末、問題の少年を紹介された。少年は十五六才で病的に青白い顏をして居た。その筈で、小兒マヒのせいか殆ど歩行も困難な身体で、その日も旗亭まで俥に乗つてやつて來たのだつた。
菅谷北斗星「消えた天才消えない天才』『将棋評論』1950年1月号

 から始まる文章は、萩原八段に「七八段になる将棋」と太鼓判を押されたT少年の棋力を紹介しながら、不便な身体では不自由が多く「戦争が済んでから内弟子にするから、戦争中は家で勉強するように」と話していた所不幸なことに戦争中に亡くなってしまった。という話です。
北斗星が「かけ値なしの天才」と評価し、「せめて社会状態が今日であったら」「夢、夢、夢、みんな夢の彼方に消えてゆく」と大きく嘆いたT少年は、経歴が同一である藤井朗少年のことでしょう。
 では、藤井少年は将棋界から「消えた天才」なのでしょうか。実は、藤井は詰将棋作家として名を残しています。『詰将棋パラダイス』という詰将棋雑誌が250号記念に「古今短編詰将棋名作選」という特集をした際、昭和初期の詰将棋の解説を担当した村山隆治がこう書いています。

 昭和の初期から大東亜戦争の末期までの詰将棋界は、当時信州の松本市で発刊されていた、『将棋月報』という詰将棋専門誌が、牛耳っていたと云っても過言ではあるまい。
 そして、その中から幾多の俊才が芽生え、抜群の才能を惜しまれつつ夭逝していった。曰く、酒井桂史、藤井朗、岡田秋霞、佐賀聖一、北村研一、有馬康晴らである。
村山隆治『詰将棋パラダイス』1976年11月号
(註・強調は引用者によるもの)
 『将棋月報』は、解説にあるように、戦前、松本市で発行されていた将棋雑誌です。定跡講座や新聞掲載譜の紹介、将棋史研究やエッセイなどもあって詰将棋専門誌というわけではないのですが、詰将棋の出題や解答の投稿も多く、詰将棋に多くの熱量が注がれていた雑誌です。そんな雑誌に、藤井も参加していたようです。
 今回は、夭逝した天才藤井朗の、詰将棋作家としての足取りを追ってみたいと思います。

 藤井の詰将棋作家デビューは『将棋世界』(以下世界)1939年12月号です。翌1月・2月号と発表は続き、計3局掲載されました。『将棋月報』(以下月報)では、まず、1940年8月号において「詰將棋の餘談」が掲載されます。これは、他の掲載作の余詰(詰将棋の作品が不完全であること)の指摘です。藤井は余詰に関する投稿を何度もしており、後に月報誌上で「余詰探しの大家」と紹介されるほどの優れた才能を発揮しています。月報での作品発表は同年の10月号11月号が最初で、一度に十局ずつ計20局発表しています。
 続く1941年も世界や月報で作品を発表しますが、月報での発表は2局と少ないです。この年の夏に体調を崩し将棋盤の前に座れない状態が続いていたそうで、それが理由だと思われます。そんな状態でも、解答を投稿するなど精力的に月報で活動をしています。また、月報での発表作2局はいずれも1941年度の作品賞を受賞しており、詰将棋作家として高く評価されています。
 1942年に入っても創作意欲は衰えず、投稿をしています。世界2月号の「詰將棋コンクール」では二等に入賞します。当時流行し藤井が得意としていた実戦型で、作図の形を特に評価されています。月報では、3月号4月号の「圖硏會詰將棋」というコーナーで出題します。この〈図研会〉は、二十才前後の青少年たちで組織された詰将棋の研究会です。創立メンバーの六名に藤井の名前も入っています。先に紹介した『詰将棋パラダイス』の記事を書いた村山隆治もその一員で、村山と藤井は図研会の同人でした。

 詰将棋で名前を上げ、同年代の仲間も得るなど、着実に将棋界を歩み続けてきた藤井ですが、ここで突然歩みが止まります。5月以降、将棋雑誌に藤井の名前が出てきません。前年からの病が重くなり、とうとう脳内盤も動かせなくなってしまったのでしょう。月報において次に名前が出てくるのは翌1943年5月号で、訃報記事になります。亡くなるまでの一年間の記録は残っていませんが、同人と文通はしていたようです。

 藤井が亡くなったのは、1943年4月16日です。享年二十才。訃報記事では、「非凡なる詰棋力を有した同氏が、これからと云ふ時になくなつた事は實に残念であり悲しい」と惜しまれています。同日、図研会の同人であった岡田秋霞も示し合わせたかのように亡くなっています。神奈川と山口で離れていた二人は、詰将棋話をするために天国で待ち合わせをしたのでしょうか。

 藤井朗が活動した期間は三年ほどと非常に短いものでした。また、棋譜がひとつも残っていないため、指し将棋については実力が分かりません。
 しかし、詰将棋においては、彼の名を惜しんでその名を書き残した仲間によって、消えた天才とはなっていません。遺した31局の作品が、その才能を今でも証明しています。そして時代を越え、現代に生きる私たちも作品を楽しめます。

 最後に、遺作となった詰将棋を紹介いたします。歩を横に並べ、狭いスペースで玉を追いかける形が藤井詰将棋に多く見られます。狭いスペースで躍動する駒たちを、小児麻痺で足が動かないなか盤上で表現をしようとする藤井となぞらえてみたいのですが、私のうがちすぎでしょうか。
詰将棋の解答は末尾に記します。解けない方も、玉の動きだけでも鑑賞していただけますと幸いです。

  
藤井朗作。『将棋月報』1942年4月号発表












詰将棋解答(『将棋月報』1942年6月号
▲3三角△1二玉▲2一銀△2三玉▲2二角成△同玉
▲3二金△1三玉▲1二金△2三玉▲2二金右△1三玉
▲1二銀成迄13手詰
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自己紹介:
将棋棋士の食事とおやつに関する話だったが、将棋考古学沼ネタもこちらで。

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