(初出『カクナリ!4』2019年2月 なお、一部に修正をしました)
はじめまして。おがちゃんと申します。
自己紹介をしますと、タルトを美味しくモグモグしていただけなのに気づいたら将棋考古学沼に落とされてしまい、現在国立国会図書館などに通って観戦記を掘っているものです。
今回は、将棋考古学について皆さんに知ってもらうためにこの原稿を書いています。
しばしお付き合い下さい。
まず、「将棋考古学」とは何か、そこから定義しましょう。
日本将棋連盟(以下、連盟)が年度毎の成績をまとめだしたのは、『将棋年鑑』の発行が始まった1967年度以降です。
将棋の記録の近代史と言えるものはここから始まります。
『将棋年鑑』を読むことで、棋士の成績が分かるようになりました(『将棋年鑑』の成績にも誤りや漏れがある、とか言い出すと切りがないのでひとまず置いておきます)。
それ以前の成績はどうなのでしょうか。
1980年代の『週刊将棋』に出てくる引退棋士の成績には、よく「昭和二十八年度以前は順位戦のみの成績」と注意書きがされています。
連盟が成績を確認する事ができるのは、1953年からのようです。
体系的に成績をまとめてこそいませんが、棋譜という一次資料が保存されており、かつ1953年10月20日以降は『将棋世界』上で成績を確認することもできます(『将棋世界』の対局日誌は漏れや間違いがありまくるとか、1953年以降の棋譜を連盟で探せるのかという疑問もありますが、それもこの際気にしてはいけません)。
これを便宜上中世史としましょう。
それでは、1953年以前はどうなのでしょうか。問題はここです。
連盟は、1953年以前の棋譜を保存していないようです。
つまり、一次資料が残っていません。
雑誌等を読むと、連盟は何度か当時の成績を調べていた形跡があるものの、現在まで反映されていないところを見ると、その試みは失敗しているようです(そもそも1953年以後の成績だって…いや、言わないでおきます)。
それを、新聞の観戦記や記事という二次資料を掘ることで、当時の将棋界や棋士の成績をできうる限り正確に把握しようとすること、これが将棋考古学になります。
過去の成績をまとめる必要はどこにあるのでしょうか。それは、過去の記録が整理されていないと、現在の記録を正しく評価することができないからです。
最近の話で言いますと、藤井聡太七段の百局時点での勝率は中原誠十六世名人と並び同率1位である、とする発表がありました(
藤井聡太七段、通算100局の最年少記録を樹立)。
しかし、これは誤りです。
中原名人の公式な四段昇段日は10月1日ですが、『将棋世界』2018年12月号の「我が棋士人生」にある通り、9月より手合がついていて2敗しています。
この成績が百局時点の勝率では漏れてしまい、勝率に加算されていません。
つまり、本来藤井七段は百局時点での勝率は単独1位であるにも拘らず、過去の記録が整理されていないため、その価値を正しく評価できなかったわけです。
同様の例は大山康晴十五世名人にも見られます。
羽生善治九段と大山名人の一般棋戦優勝回数は、2019年2月時点で同数の44回とされています。
しかし、記録を調べると、大山名人は後3回優勝している計算になります(詳細については、『将棋ペン倶楽部 通信』53号で書きました)。
次に羽生九段が一般棋戦優勝をした場合、「一般棋戦優勝回数単独1位」という発表がされると思われますが、それも間違っているのです。
※その後、
羽生善治九段、一般棋戦の優勝回数歴代1位にという発表がされています。
現代の棋士の偉大さを語るには、過去に積み上げてきた記録を正しく認識しなければなりません。
逆に、過去の棋士の記録を整理する事で、歴史に埋もれた棋士の再評価にも繋がると思います。
現在、ある程度調べがついた棋戦もありますが、国会図書館に所蔵のない地方紙を始め、多くの資料が手付かずになっています。
調べれば調べるほど調べる必要があるものが増えている現状で、やらなければいけない事はたくさんあります。ですが圧倒的に手が足りません。
私個人の事情を言えば、同時に「将棋めし」の歴史も調べておりまして、そちらに割かなければいけないリソースもあります。
というわけで、調査仲間を常に求めています。
調べるまではいかなくとも、記録整理の重要性を共有していただくことも大切だと思っております。
古い棋譜や観戦記を読むと、現代に現れる局面を昔の棋士が指しているのを発見したり、埋もれている楽しいエピソードが見つかったりと、楽しいことが多いです。
皆さんも、将棋考古学沼に足を踏み入れてみませんか?