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将棋棋士の食事とおやつ出張所

第2期順位戦・将棋の神様に愛された大山康晴七段


 前回から引継いで第2期順位戦を考えてみたい。
 そもそも、第2期順位戦では何故名人挑戦者決定戦を行うようになったのか。
 升田七段が活躍したから、というのが定説でそれは正しいのであるが、もう少し細かく見てみよう。

 升田七段は、夕刊新大阪主催の木村升田五番勝負で木村名人に3連勝し一躍名人候補となった。
 その対局結果が出た翌日(1946年12月9日)、夕刊新大阪で「木村名人三連敗の波紋 名人戰に升田七段加えよ」という記事が出る。
 「段位撤廃というのであれば、実力のある升田七段を名人挑戦者にするべきだ」という主旨の記事で、H記者名義で書かれたこの記事は樋口金信の筆だと思われる。大成会批判もしているので匿名にしたのであろうか。この時点で毎日新聞社は、自社がスターにした升田七段を名人挑戦者にしたい意図を感じる。
 記事に書いたのみに終わらず、毎日新聞社は主催者として升田七段を名人挑戦者決定戦に加えるように要求を出していることも分かっている。

将棋世界1947年2月号
將棋放談 中島富治
升田参加の問題
 最近大阪新夕刊の木村升田の平香五番勝負で 升田が、香、平、平と三番連勝して、折角の催うしも一方的に終つた。。しかも壓倒的な勝ち振りで,流石の木村も顔を上げることも出来なかつたと、眞僞は知らぬが、對局を見た人の話である。なるほど棋譜を見れば、第一、二局の如きは段違いの感さえ起こるほどの將棋であつた。流石に棋界最大の通人黒崎貞次郎君の企畫丈けあつて、文字通り圖星を刺したのである。ために大阪棋界、否全關西では鼎の湧くような大人氣を巻き起こした。
 この異變ははしなくも棋界に厄介な問題を惹起した。名人戦獨占の毎日新聞が大成會に對して、不日行わるべき名人位挑戰者を決定する決勝戰―萩原、塚田、大野の決勝―に升田を参加せしむべきことを要求し来たつたのである。大成會は之れを拒否するに決したようであるがこの毎日新聞の要求は、理論的には一顧の價もないものあるは言を要しない處である。それを百も承知の上で提言して居るのである。關西棋界の聲を代表して申入れたものである。理論はどうあろうと稀世の達人、十年名人位を護つて會つて微動もしなかつたと言われる名人を三番續けて,破つた現賓をよそに,外で名人位と賭けた棋戰が、升田を入れずに行われることは、いかにも不本意な、割り切れぬ思いのすることあるは之れ叉言を要せぎる處である。いかに厳格な法律や制度と雖も動かし難き現實の前には其の効力を發揮し得ない今の世の中であつて見れば規定や約束一本槍で之れを拒否することも仲々しにくいことであろう。新聞社の要求する、三人の決戰に加えて四人の決戰とすることは、規定により實力第七位の升田が第一位を爭う三人も同じ順位におかるヽわけで、三人の候補者は勿論、第四、第五、第六位の三人に於ても容易に承認し難い處であろう。木村は升田に敗ぶれたりとも、彼等は一局をも敗ぶれて居ないのであるから、之れは當然すぎるほど當然な申分である。然らば更めて、七人の決勝戰を行うか、之れは折角力闘して第一位を爭うに至れる三人が下位のものと同じ状態に還元せらるヽわけであつて、之れ又容易に承認し得ない處であろう。大成會の拒否も勿論、この理由によるであろうが、さりとて之れほど人氣の立つた升田を、そのまヽにして名人戰を行つて済むものでもあるまい

 毎日新聞社の要求に対して大成会は規定通りに行うと拒否し、結局この期は三者による名人挑戦者決定戦となる。
 その後の毎日新聞社と大成会の話し合いで、升田七段のような突出した棋士が出てきた時の事を考え、得点の第1位から第4位までで名人挑戦者決定戦を行う事に決めた、という流れだったのであろう。
 升田七段のために毎日新聞社が申し入れた結果、大山七段に名人挑戦の目が開けたのである。
 ここで重要なのが、A級とB級の点数差を35点から30点に変更していなかったら、大山七段に名人挑戦の目がなかったことだ。
 変更がなかった場合点数は76点で、土居八段(77点)の下の第5位に終わりベスト4に入る事ができなかった。
 点数差を変更した理由やその点数を30点とした根拠が分からないのであるが、このルール変更にも大山七段は救われている。

 第2期順位戦は、名人挑戦者決定戦を行うこと、各級の点数差を30点にすること、といった変更を経てスタートしたわけであるが、中盤で升田八段絡みの問題が起こる。病気による不戦敗問題である。

時事新報1947/9/29 石山賢吉
"升田君病氣"
 升田君、三戦三勝、非常に優勢である。残るは、木村、花田。大野、加藤の四棋士。この内、木村、大野の両君が大阪へ対局に出張した。升田君が病氣で対局が出来なく、両君は空しく帰つて來た。こういう場合、不戦勝になるのが大成会の規定である。よつて、不戦勝の議がある。しかし、そうされてはわれわれ新聞社の方が困る。今回の順位戦では先手、後手、二番指すことになつている。もし最初の方が不戦勝にきまれば、後の方を本紙上に掲載する。
 升田八段が病気のため対局できず、その結果不戦敗になりかけるのである。この時時事新報は大成会と升田八段・大山七段の順位戦の将棋を掲載する契約をしており、棋譜がないと新聞社としては困る、ただし規定は規定、という厄介なことになってしまった。

時事新報1947/11/4 石山賢吉
 アト、加藤、木村、大野の三局であるが、対加藤戦は既に終り、木村、大野が不戦敗と決すれば、これで本年度順位戦の第一回を終つたわけである。だが、まだ木村、大野戦が不戦敗と決したわけではない。

時事新報1947/11/24 石山賢吉
 木村、大野の升田八段に対する不戦勝問題は連絡に不備のところがあつたので、否決された。
 結局この問題は解決に2ヶ月かかり、最終的に「連絡に不備のところがあった」という事で不戦敗にはならず、改めて指される事になった。
 具体的にどんな不備があったのか分からず裏で色々あったことが想像できるが、升田八段は不戦敗にならなかったのである。
 このことは、後に大きな影響を与える事になる。
 まず、もしこの二局が不戦敗になっていれば、A級の第一位は10勝4敗の順位の差で大野八段となり、高野山の決戦が名人挑戦者を決める戦いにならなかった。
 最終決戦は当時東京在住だった大野八段の所へ升田大山戦の勝者が向うことになったと思われ、仮に升田大山戦が高野山で行われていたとしても、次に大野戦が控えている分、勝負の雰囲気は違うものになっていたはずだ。
 そして、升田八段が高野山で対局拒否騒動を起した時の言い分が「連絡がなかった事」「病気なのに寒冷地で対局をする事」であったことにも注目したい。
 今の目線で見ると随分子供じみた言い訳に聞こえるが、第2期順位戦の最中病気で不戦敗問題が起こった時は、「連絡の不備」という言い分が通ったのである。升田八段としてはここでも主張が通ると思っていたのかもしれない。しかし2回目は通らなかった。

 毎日新聞社や時事新報は、升田八段と自社の観戦記のために規定を曲げて升田八段の不戦敗を取り消した。
 その事が結果的に、升田大山戦が名人挑戦を決める大一番となり、かつ直前まで対局拒否するつもりだったという升田八段のモチベーションが高まらない状態で決戦を迎える事になってしまた。
 升田八段に良かれと思って行ったことが升田八段の首を絞める結果になり、全て大山七段にとって都合の良い展開になっているのになんとも言えないものを感じる。

 大山七段にとって更に幸運だったのは、A級の最終局、1948年1月末の木村前名人対土居八段戦の結果である。
 前記事の将棋世界やサンデー毎日で触れられているが、この対局を土居八段が勝った場合、大山七段は順位が第5位になり名人挑戦者決定戦に駒を進める事ができなかった。
 4位になるかどうかは他力な状態であったが、木村前名人が意地を見せる形で土居八段に勝利。大山七段は木村前名人に救われる形となった。
 その後三番勝負を花田・大野・升田と勝ち続けなければ名人に挑戦できない所、花田八段が病気のため棄権する事になり、すぐに大野八段と戦えたことも体力的な面で楽になっている。
 樋口金信ではないが、「大山七段にとつては、何もかも誂え向きの好條件となつた」形で、大山七段の目の前に名人挑戦への道が次々開かれていったのが第2期順位戦であった。

 調べてみると、第2期順位戦は大山七段のために行われた順位戦だと感じてしまう。大山七段は将棋の神様に愛されていたとしか思えない。
 時代を創る棋士は「自分は運のよい人間なのだ」と思っている、と書いたのは河口俊彦であるが、昭和20年代に最も運のよかった棋士は大山康晴七段だったのではないだろうか。
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