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将棋棋士の食事とおやつ出張所

第1期順位戦について(星取表編)

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第1期順位戦について(星取表編)

前記事に続いて第1期順位戦を紹介する。
今回は成績とその補足である。

前回と同じく、以下は全て国立国会図書館憲政資料室日本占領関係資料、プランゲ文庫の
・将棋世界 [10巻6号(1946年6月)-13巻10月号(1949年10月)
からまとめたものである。
まずは星取表を(星取表は1947年3月号に掲載)。


(八段組)
順位











平均点
4 土居市太郎 8 5 117
15 金易二郎 4 9 86
8 花田長太郎 6 7 101
18 金子金五郎 3 10 78
3 萩原淳 10 3 132
17 齋藤銀次郎 3 9 1 82
6 坂口允彦 7 6 109
1 塚田正夫 10 3 132
10 渡邉東一 6 7 101
12 小泉兼吉 5 7 1 97
15 梶一郎 4 9 86
4 加藤治郎 8 5 117
2 大野源一 10 3 132
9 村上真一 6 7 101

(六七段組)
順位


















平均点
46 宮松關三郎 1 12 1 31
25 松下力 7 7 70
23 大和久彪 7 6 1 74
39 飯塚勘一郎 3 10 1 45
7 升田幸三 12 2 106
53 平野信助 0 14 20
30 荒巻三之 5 9 55
19 長谷川清二郎 8 6 77
19 松田茂行 8 6 77
14 小堀清一 10 4 91
19 北楯修哉 8 6 77
19 松田與之助 8 6 77
11 大山康晴 11 3 99
13 高島一岐代 10 3 1 95
30 藤内金吾 5 9 55

(四五段組)一の組
順位














平均点
53 加藤惠吾 3 11 6
40 市川一郎 8 6 42
47 山本武雄 6 8 28
26 高柳敏夫 11 3 64
34 富澤傳助 9 5 49
34 橋爪敏太郎 9 5 49
56 吉田六彦 3 11 6
54 京須行男 4 10 14
47 間宮純一 6 8 28
34 佐瀬勇次 9 5 49
34 原田泰夫 9 5 49
24 丸田祐三 12 2 71
穩退 畝美與吉 - - - -
47 岡崎史郎 6 8 28
28 松浦卓造 10 4 56

(四五段組)二の組
順位















平均点
40 藤川義夫 8 6 42
54 志澤春吉 4 10 14
42 奥野基芳 7 6 1 39
50 板谷四郎 5 9 21
43 花村元司 7 7 35
32 金高清吉 9 4 1 53
50 廣津久雄 5 9 21
28 山川次彦 10 4 56
27 加藤博二 10 3 1 60
32 山中和正 9 4 1 53
43 本間一雄 7 7 35
43 北村秀次郎 7 7 35
50 南口繁一 5 9 21
34 星田敬三 9 5 49
穩退 上田三三 1 13 -8

気になるのは人数。
(イ)八段十六名(口) 七・六段十五名(ハ)五・四段三十四名をニ組に分け<
とあるが、人数が違う。

まず八段十六名だが、将棋世界1946年8,9月合併号に記述がある。
十六名を算する八段組(建部八段未歸還)
そして木見金治郎八段は12月号まで成績表に名前があるが、未参加のまま順位戦を終えている。 他に中井捨吉六段、畝美與吉五段が同様の処置がされていて、この3人は戦災の影響で未参加だったようだ。
なお、畝美與吉五段は星取表では名前が載っているが、1947年8,9月合併号で山本武雄C級が
一つの不戦勝を加えて六勝八敗
としており、対局は行っていない。
推測だが、順位をつける都合上四五段組の対局数を揃える必要があり、便宜的に勝敗だけつけていたのではないか。
同じように「穩退」表記のある上田三三四段は対局数は正常にこなしており、1947年2月号では58位表記になっているので、こちらは引退したとみる事ができそうだ。

四五段の方は、1946年6月号の「棋士の消息」に記載されていて順位戦に参加していない棋士が4人いて、この4人を含めていたと思われる。
・野村慶虎五段(大阪市)
・鈴木禎一四段(宮城県名取郡)

・永沢勝雄四段(佐野市)
・下山久雄四段(福岡市)
いずれも地方の棋士で、対局が不可能だったのではないか。
野村五段、鈴木四段は後に順位戦に参加している。
永沢四段については順位戦データベースにおいて
>>趣旨不賛成のため不参加
とあるが、将棋世界誌では詳細不明。
下山四段については棋歴含め全く情報なし。情報求む。
※5/21追記
下山久雄四段は廣津久雄九段ではないかという指摘をいただき調べ直した所、
1946年8,9月号で
>>廣津久雄四段(舊稱下山)
という記述がありました。廣津久雄九段の旧称が下山という事で、下山四段は廣津四段でした。
情報提供していただきありがとうございました。


逆に、六七段組は不参加の
中井捨吉六段を入れると人数が多い。
これも推測になってしまうのだが、1946年7月号の「棋士消息」で松田六段、升田七段の復員情報があり、当初この2人を含めず、逆に
・和田庄兵衛六段(青森県下北郡)
を含めて15人としていたのではないか。
この件についても、知っている方がいれば教えていただきたい。


なお、表の「順位」とあるのは今回の成績を受けての新順位である。
平均点を基に順位がつけられ、平均点の求め方は第1期順位戦について(ルール)を参照の事。
本来であれば同点者は規程の通り決戦を行うのであるが、
A級第八位を爭つてゐた花田、村上、渡邉三氏は、長老花田氏の優勝する所となり、花田氏はA級に残り、村上、渡邉兩氏わB級の一二位になつた。この順位は今後一年間、従來の段位に替るものとして通用する。六七段組では先月號發表と變りなく、大山、高島、小堀氏らが上位を占めることゝなつた。上京難、宿舎難等の社會情勢を考慮して同成績者の決戦對局は行わぬことゝなつたので同順位者の人々が可成出來たが、來年度わ出来得る限り各人決戦に依つて順位を決定する。
―将棋世界1947年2月号より
とあり、同点者は同順位とする事になっている。
さて、前記事に触れた日本将棋連盟調査室の回答をもう一度見てみよう。
一般論としてはごもっともです。しかし連盟棋士は、ご承知の通り、各級の定数と毎年必ず何人かの昇降級を行う制約から、否応なく順位が決められる。同率は棋歴によって順位を決める。止むを得ないことです。<br />
従ってこの点はご意見として承っておき、紙幅に余裕があるときは同じ勝率であることを補足したいと思います。
―将棋世界1981年5月号より
当時の将棋大成会が同順位とする決定をしているので、この回答は正しくない。
と私は見るのであるが皆さんはいかがだろうか。


将棋世界から抜き出した第1期順位戦の詳細は以上。
未解決の部分がまだあるので、それらは分かり次第追記する事とする。
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自己紹介:
将棋棋士の食事とおやつに関する話だったが、将棋考古学沼ネタもこちらで。

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