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将棋棋士の食事とおやつ出張所

昭和20年代前半の阪田流向かい飛車(筋違い角)

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昭和20年代前半の阪田流向かい飛車(筋違い角)

きっかけは静岡新聞1947/8/8掲載の高柳生(高柳名誉九段)自戦記だった。



 この△6五角について「大和久七段の新手で現在流行している」と書かれていたのだが、大して重要とも思えなかったので要点だけメモしていた。
 ところが、他の新聞も読んでみると、確かにこの時期、阪田流からの筋違い角が多い。
この時期の新聞は欠号が多く採譜が進まないのだが、夕刊北海タイムスでみると

夕刊北海タイムス1947/1/17~掲載 塚田丸田三番勝負平手番
・▲丸田祐三△塚田正夫
夕刊北海タイムス1947/3/18~掲載 強豪新鋭選抜紅白戦
・▲高柳敏夫△北楯修哉

 といったように昭和22年上半期を中心に指されている印象だ。
横着して画像で引用するが、塚田丸田戦の観戦記では

とあり、坂口允彦八段が順位戦で指し、その後流行したようである。
では△6五角は坂口八段の新手なのか。いや、違う。

 「将棋戦法大事典」(1985 大修館書店 加藤治郎)によると、これは昭和12年の週刊朝日掲載▲加藤治郎△大和久彪戦が初出との事(銀杏記者に教えていただきました。ありがとうございました)。
というわけで昭和12年の週刊朝日を調べてみると、1937/5/16~5/23に掲載の「東西對抗選抜五段決勝戦」である事が分かった。
東西の五段棋士3名ずつがそれぞれ分かれて対局し、リーグ優勝者が東西決戦をするという棋戦。
ちなみに「決勝」とついているが、当時の「決勝」や「優勝」という表記は必ずしも頂上対決を示すものでなく、この対局も東リーグの一局である。

 少々長いが観戦記と解説を引用する。
週刊朝日 1937/5/16
坂口允彦解説
 後手六五角と打つたのは新手であるが僅々十一分の考慮から見て大和久氏としては豫定の行動でかねて期してゐた一着であらう。ここを普通に二二飛と廻つても先手に三八銀と受けられてゐると後の駒捌きが非常に難しい。一見二四歩、同歩、同金の厭迫も考へられるが實際には二四金の捌き遅く先手の恐れる處ではないのである。
 先手の三三角成と後手六五角の二手は共に兩氏日頃の精進の現れでその可否はともあれ絶對の敬意を表する。

横井夢段観戦記
 「後手三三角戦法」は金子八段のお家藝で、同八段が自ら「後手作戦の最高峰を行くもの」と折紙づけるだけに、かつてはこの戦術をもつて木村八段を破り、後手として最初の輝かしい勝利ををさめた秘法だ。―と、みる間もなく、加藤君は敢然と三三角成、同金と角の交換に出たので、盤上は忽ち一變、これはまた最新未解決の驚異的手法として、棋界あげて注視の的とする新局面の展開となつた。
 今から十七八年も前のこと、東西決裂を前にして、坂田、土居の兩雄が交へた「最後の一戦」にこの局面を招来したのが始めで、研究の結果、後手をして手順に向飛車の好型をつくらしめることによつて、飛先を押し潰される不利があり「先手指悪し」といふ結論に達したため、その後は全く絶えて指す棋士もなかつたものだ。
 それを突然、起用したのが花田八段だつた。今春劈頭の「本社全日本選抜大棋戦」で、木村八段を對手に敢行。しかもたまたま「坂田對木村、花田」の決戦實現が發表され、この兩八段が「坂田將棋」の研究に没頭してゐた折柄だつたので、凄まじい注目と話題の渦を惹起した。戦績は花田八段が終盤思ひもよらぬ緩手を指したため木村八段の勝に歸したが、関根名人も「後手としては戒心すべきだが果たして豫想してゐたかどうか?」と講評し、観戦の金子八段は「後手の作戦負け」と断じたものだつた。
 この新研究を加藤君がとつて出たあたり、その知識的研究家の面目躍如としてゐるではないか。ところが大和久君も、これに對する應戦法の研究を怠つてゐやうはずがなく「六五角打」の新研究を用意してゐたものだ。
 すなはち、花田對木村の場合には、先手八八銀の次ぎ後手は直に二二飛と振り、以下互ひに玉を七筋に移動させてから三八銀、二四歩と二筋の攻防に移り、つづいて七七角打、三三角打と先手は巧に會心の局面に導いてゐるが、大和久君は後手としてこの推移を好まず、二二飛の一手で六五角と「筋違ひ」の角を打つて、一歩の得と遠く二筋の飛頭反撃の掩護を兼ねる手段に出た。そしてその結果は三五歩と占めた上に五五歩の「先手指過ぎ」といふ思ひもよらぬ獲物にありついて、局面をすつかり有利に導いてしまつた。

 話を整理すると、

・阪田流向かい飛車は、坂田土居戦で指された後、ダイレクトに向かい飛車に振られて先手不満との結論が出て先手が角交換をしなくなった。
・そのため、後手は角交換をしてこない前提で駒組を進め、「後手三三角戦法」という戦法ができた。
・ところが、昭和12年に入って、対坂田三吉のため坂田将棋を研究していた木村義雄・花田長太郎の2人の対局で、花田長太郎が角交換を挑む。
・結果は花田負けだが、途中は後手が思わしくなかったのではないかと思われ、その結果先手が角交換してもいいのではないかと思われてきた。
・そして加藤治郎五段が角交換を決行。それに対する大和久彪五段の研究手が△6五角だった。

という流れである。



 戦前の将棋を見ると、この阪田流基本図から▲5六歩と上がり中飛車に振る将棋がよく見られる(▲4八銀より▲5六歩が圧倒的に多い)。
戦前については細く調べてないので断定できないのだが、後手三三角戦法の先手の対策が中飛車であったのだろうか。
そして昭和12年の花田木村戦の後、先手が角交換して阪田流向かい飛車になる将棋が何局か見られるようになる。
その一局が、この加藤大和久戦であったようだ。

 阪田流向かい飛車についてはここからまた謎になる。
大和久新手は今採譜できている戦前の棋譜ではこの一局だけであるし、先手も少しするとまた角交換をしない棋譜が多くなる。
昭和11年以前と比べると基本図に進む将棋がえらく減っている(これは採譜していないだけの可能性もあり)のもまた気になる所。
資料が少なく行間を埋めるのが困難であり、ここではひとまず「昭和12年、阪田流向かい飛車は少しブームになったが、その後また先手は角交換を避ける事が増えている」とだけ書き残しておく。
その結果、大和久新手も消えた新手となってしまったようだ。


 その消えた新手を復活させたのが、坂口八段だったのだ。
よく観戦記を読めば、この加藤大和久戦は坂口八段が解説を担当している。
坂口八段はこの将棋を覚えていて、密かに改良を試みていたのだろうか。
萩原坂口戦の棋譜が不明のため詳細が分らないのだが、大和久新手は解説をしていた坂口八段によって戦後甦ったのは確かなようである。
いや、甦ったどころの話でなく、昭和22年の阪田流向かい飛車は筋違い角ばかりで、かつ後手が押している将棋が多く、その結果昭和23年に入るとまた先手が角交換をしなくなってしまう。
ちなみに筋違い角には△6五角と△5四角と2箇所角を打つ場所があり、どちらも強力であった。
△5四角については高柳新手の▲3八銀という手があったが(将棋戦法大事典)、決定版と言えるものではなかったようだ。

※参考 高柳新手▲3八銀




角交換しなかった当時の将棋の観戦記を軽く紹介すると、




東京タイムズ1950/1/16
本社特選順位決定戦 板谷四郎七段対萩原淳八段
三猿子
 五五歩から六五歩と五、六筋の位を取る戦法は最新流行型の一ツ。原田八段なども好んでもちいる戦法だが、あまり勝率はよくない。 その欠陥として三つを挙げることが出来よう。①玉の囲いが遅れる②伸びすぎに陥る。③新作戦だけに時間を消費する。これに反し敵は型のきまつた將棋だけに指しよいことはいうまでもない
 この事は、先手が角交換しない事を前提に定跡が作られていった事を示している。
戦前はダイレクト向かい飛車が不満で「後手三三角戦法」が生まれたが、戦後も筋違い角が不満で5,6筋位取り戦法が生まれたようだ(ただし、この戦型自体は別のオープニングからも合流する例がある)。

 先手が角交換し、阪田流向かい飛車がまた多く指されるようになったのは昭和25年からである。
なぜ多く指されるようになったか。
ここでまたあの棋士が出てくる。坂口八段である。
昭和25年6月7日、A級順位戦の第1局がその舞台だ。
東京タイムズ 1950/6/28
本社特選順位決定戦 坂口允彦八段対丸田祐三八段
三猿子
坂口に新手ありや
 木村―大山の名人戦第三局目に、木村名人は本局と同様、三三角成、同金の局面に導いている。しかしその時、大山八段は六五角と筋違い角を打たず、五十六分の長考後二二飛と関西が生んだ巨匠坂田創案になる向飛車戦法をとり大山の勝となつた。
 また昨年の木村―塚田の名人戦第三局にも、木村はコレと全く同様の局面に導いたが、その時塚田前名人(当時名人)は丸田八段と同様、六五角戦法をもちいて快勝している。
 この二つを例にとると、何れも先手番が不利になるといえないこともない。だが、それを百も承知でもちいた坂口八段に何等かの新研究がなくてはならない。
 きようの指し手は、筋違い角戦法として当然すぎるほど至当な運びだが、では坂口の新手はいつ現れて來るのだろうか? 明日の紙面を樂しみにして頂きたい。
 ご覧の通り、それまで名人戦等で散発的に指されていたが後手が勝っており、先手に何か対策が必要な状態であった。
その対策はなんであったか。次譜の観戦記を引き続き読もう。

東京タイムズ 1950/6/29
本社特選順位決定戦 坂口允彦八段対丸田祐三八段
三猿子
 四七銀の新手
 きのう宿題とした坂口八段の新手とは、四六歩から四七銀の構えがそれ、既往の定跡では大てい五筋の歩を突き進めて、角を圧迫する含みに指すことは、一般の知るところ。
 しかし何か、新たな研究があるのであろう。坂口は殊更に五筋を突かず、四筋の歩を突き出し、腰掛銀含みに四七銀と進み出た。 俊敏丸田八段は早くも、敵に秘手のあることを看取したらしく、座り直して盤上に目をそそぐ。そして「成程……」の呟いては、一人で肯きながらの長考である。
 やがて「よくわからない」と呟きながら、丸田の手が伸び、二四歩と喧嘩を買つてでた。


 この▲4七銀が坂口新手であった。
2筋を相手にせず中央に狙いをつけ、丸田八段の失着もあって43手で圧倒。
この将棋は丸田八段が自戦記を書き、将棋世界1950年8月号に掲載された。
筋違い角を打つまでの序盤作戦について書かれているので、一部引用してみる。
この時点までは、先手が角交換を必ずしもしていたわけではないのが、理解できると思う。

将棋世界1950年8月号
順位戦好局集 坂口八段との對局 / 丸田祐三
注文つけた三三角戰法
 初手合の後手、それだけに自分から注文をつけずに、對手の策戰に追随してゆくつもりだつたのだが……
(中略)
 坂口氏の二六歩を見て、八四歩の豫定だつたが、いざ指そうと思つて隣を見て驚いた。
 塚田、五十嵐戰の順位戰對局が、私が少考している間に、二六歩、八四歩、二五歩、八五歩と「スムース」に進み、飛先の歩を御互いに交換した所まで進んでいる。
 私は再び考へた。八四歩と突けば坂口氏休場間に流行した角換わり腰掛銀には恐らく來まい。とすると、單なる相懸りとなつて隣合つて同型で指すことは私の意地がこれを許さないどんな形でも悪手さえ指さなければ容易に敗けない。これが私の脳裏をかすめた。その瞬間自ら注文をつける。三二金から三三角と態度を決定していた。
筋違い角を決行
 第一圖に於て坂口さんは最初の長考に入つた。此處は三三角成とする手と、穏やかな五六歩又は四八銀等序盤の策戰の岐路である。私は對手の長考中に考へた。角交換から向飛車、これは今迄一局も經驗がない。いやだなと思つていたら案の定三三角成、同金から八八銀と角交換に出られた。私の氣持ちを見透かされた感じで流石と思つた。
 今度は私が策戰を決める番、常識的に行つて、二二飛と六五角だが、二二飛形の最近の代表作は、本年度名人戰第三局に大山氏の用ひた戰法。六五角は一昨年名人戰で塚田氏の用ひた戰法で名人戰に縁があつて、何れも後手方が勝つている。
 どちらに決定するか迷つたが、二二飛型はあまりに最近すぎるので、意表をつく意味と筋遠角は打たせた方が指易いと私の持論だが此の機會に自分で一度やつておきたかつたので六五角と決行した。

 坂口八段はこの後の順位戦対高柳八段戦でも、細かい形は違うが▲4七銀を採用。
中央を攻められるのを嫌った高柳八段は居飛車を採用するが、坂口八段が勝利する。
その結果、△6五角は勢いをなくしていく。

 そして同時期、もう一つの筋違い角△5四角についても、二上四段が▲3八銀の改良案である▲3八金という新手を出す。



 詳細な変化は「将棋戦法大事典」を確認していただくとして、△6五角にも△5四角にも先手側の対策ができた結果、先手は安心して角交換ができるようになり、阪田流向かい飛車が局面として現れるようになったのだ。
 将棋世界最新号で鈴木宏彦氏が
将棋世界2018年5月号
鈴木宏彦
108P
阪田流向かい飛車の真実
昭和25年以降、阪田流向かい飛車は比較的頻繁に指されるようになった。居飛車側の研究が進み、相手に飛車を振られても、それなりに対抗できることがわかったからだ。
と触れているが、これは正確には「相手が筋違い角を打っても、それなりに対抗できることがわかったからだ」とするのが正しいと思われる。
 将棋戦法大事典からも、流行の衰えについて書かれた箇所を引用する。
将棋戦法大事典
加藤治郎
265P

 「プロ2号」筋違い角の歩得封じの二法▲3八銀(B図)と▲3八金(C図)を紹介したが、このうち▲3八銀は高柳八段(昭和二十三年=当時六段)、▲3八金は二上九段(昭和二十五年=当時四段)がそれぞれ創案した当時の新手である。
 "プロ2号筋違い角"は一種の斜陽戦法で最近はほとんどその姿を現していない。
 昭和二十五年ごろまでは流行戦法として盛んに戦われたが、高柳式▲3八銀と二上式▲3八金が開発されてからは、急にその勢いが衰えはじめたのである。
 プロ2号とは、阪田流向かい飛車筋違い角のこと(プロ1号はノーマルな阪田流向かい飛車)
ちなみにこの項では△5四角型筋違い角の先手の対策しか紹介していないため、△6五角型筋違い角については別の対策が出てきた(つまり坂口新手)のではないかと推測する。
つまり、坂口八段が消えていた新手を蘇らせ流行させた△6五角は、坂口八段自身が優秀な対策を披露した為、再び消えた新手になってしまったのではないだろうか。


 最後に、戦後から昭和25年までの阪田流向かい飛車事情をまとめて〆にする

・昭和21年
坂口八段が、自身が戦前解説した将棋であった大和久新手△6五角を順位戦で採用する。
・昭和22年
阪田流向かい飛車筋違い角の優秀性が認められ、阪田流向かい飛車がブームになる。
・昭和23~24年
筋違い角を打つ場所△6五角・△5四角何れも対策が整わず、結果先手は角交換を挑まなくなる。
・昭和25年
△6五角については坂口新手▲4七銀、△5四角については二上新手▲3八金が登場
どちらの筋違い角も先手の対策が生まれ、先手が角交換を挑むようになり、阪田流向かい飛車が局面として再び現れるようになる。
坂口新手、二上新手とも優秀な対策で、その結果阪田流向かい飛車筋違い角は終焉を向かえ、後手は筋違い角を打たなくなった。
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