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棋狂子の觀戦記は近來の讀み物です。小生は餘り將棋の事は知らず從つて興味もなかつたのですが、今度は知らず〳〵讀まされました。まるで連載小説のやうに明日が待たれます。倉島は、対局中の食事、所謂「将棋めし」を初めて記述した人物であり、北斗星と同じくゴシップを観戦記のなかで効果的に使用している。そうした観戦記が、将棋を知らず、興味もない読者を将棋ファンにしている。黎明期の観戦記者たちがゴシップを重視したことは、重要なことである。将棋の普及にあたり、ゴシップが果たした役割は非常に大きなものであると言えよう。
『國民新聞』「讀者の聲」1932年9月4日付
將棋の讀物化を目射す以上、外の一般百パーセントの興味を狙ふ連載物と同巧異曲である。と原稿を結んでいる。
要約するに、私は將棋の大衆文藝を書く積りで筆を採ることが第一であると思ふ。双方の駒をススメ、それ〴〵敵玉の奪ひ合ひ、陣立、合戰、寄せ具合、一局一篇の大衆文藝でなくて何であらう。
「소식통-將棋의 天才兒出現」『每日新報』1940年9月28日付 pic.twitter.com/MkMMURJIcf
— おがちゃん (@apout1992) July 17, 2022
日支事變がまだ太平洋戰争に突入しない前であつた。神奈川縣長後町の相模殖産學校長の渡邊信雄氏が、是非見て貰いたい少年があるからと、牛込神樂坂の某旗亭に私を招待した。
私は萩原八段と伴れ立つてでかけて行つた。手厚い饗宴に預つた末、問題の少年を紹介された。少年は十五六才で病的に青白い顏をして居た。その筈で、小兒マヒのせいか殆ど歩行も困難な身体で、その日も旗亭まで俥に乗つてやつて來たのだつた。
菅谷北斗星「消えた天才消えない天才』『将棋評論』1950年1月号
昭和の初期から大東亜戦争の末期までの詰将棋界は、当時信州の松本市で発刊されていた、『将棋月報』という詰将棋専門誌が、牛耳っていたと云っても過言ではあるまい。『将棋月報』は、解説にあるように、戦前、松本市で発行されていた将棋雑誌です。定跡講座や新聞掲載譜の紹介、将棋史研究やエッセイなどもあって詰将棋専門誌というわけではないのですが、詰将棋の出題や解答の投稿も多く、詰将棋に多くの熱量が注がれていた雑誌です。そんな雑誌に、藤井も参加していたようです。
そして、その中から幾多の俊才が芽生え、抜群の才能を惜しまれつつ夭逝していった。曰く、酒井桂史、藤井朗、岡田秋霞、佐賀聖一、北村研一、有馬康晴らである。
村山隆治『詰将棋パラダイス』1976年11月号
(註・強調は引用者によるもの)
名人戦 十八期(単位が回数のものが一般棋戦。初期の王座戦は一般棋戦だった)
王将戦 十七期
王位戦 十二期
棋聖戦 十一期
十段戦 八期
九段戦 六期
王座戦 七回
NHK杯戦 六回
早指し王位戦 四回
名人A級勝抜戦 四回
東京新聞杯戦 二回
早指し選手権戦 二回
産経杯争奪戦 一回
全八段戦 一回
将棋連盟杯戦 一回[1]
夕刊四社の『最強者選抜戦』に大山康晴八段優勝。これを記念して塚田正夫名人―大山康晴八段の特別対局おこなわる。[8]というように「優勝」という言葉を使っているのであろう。記念対局が行われたのであれば、当時は棋戦優勝だったと考えられる[9]。
24年〔時事勝継戦〕5人抜き[11]とあるので、「時事勝継戦」とする。
五人抜き優勝者には本社賞が賭けられ次で名人と対戦することになつている[12]とあり、五人抜きが優勝扱いである事が分かる。大山九段は十五回に登場。病気で一旦休むが、復帰後四人抜いて合わせて五人抜き、松下七段に負けて退場した(棋戦進行は将棋棋士成績DBから)。木村義雄名人との記念対局は1951年6月17日に行われ、名人と九段の対局となった事もあり、六月十八日付の『時事新報』では対局写真入りで報じた。
塚田前名人、原田、南口、丸田各八段、小堀七段に連勝して連盟規程により名人との対局の資格を得た大山九段と木村対升田名人戦に升田を降して第十期名人位を確保した木村名人との対局[13]五人抜きを優勝として名人と記念対局を行うのは、連盟規程であったようだ。
今回は、出場棋士も名人を加えて四十一名という豪華版。名人は、東軍西軍いずれかゞ勝利を占めたとき、負けた側に出場して勝継戦に参加するという新らしい方式が採用された。[14]第三回までは、名人は五人抜き優勝者と記念対局をする形であった。しかし、この回は名人も一人の棋士として出場するように規程が変わっている。そして実際に、西軍が勝利した後に名人が登場する事となった。
第四回東西対抗勝継戦は、花村(勝)丸田戦を以て西軍に凱歌が挙つた。五人抜きは熊谷ひとり、四人抜きは北村(秀)ただ一人で、いずれも西軍であつた。「規程により」と書かれている事、「五人抜き成るか?」と五人抜きに触れられている事から、名人が記念対局をするのではなく、第四回開始時の方式が変わる事なく、通常の勝継戦方式で名人が参加した事が分かる。
(中略)
西軍の勝利で花村、坂口、広津、板谷、大野が残り、規程によつて大山名人がここに登場することとなつた。花村が対局過多のため坂口が第一戦に出たが、三月二十日名人まず勝星をあげた。千日手でその指直しを同日強行するという気合の入れ方であつた。名人の五人抜き成るか?[15]
本社主催特別模範勝継戦の大山名人対大野八段戦は一日午前十時から東京中野の日本将棋連盟で行われ同日午後三時卅分八十八手で大山名人が勝つた。これで名人は、坂口、板谷、花村各八段、広津七段、大野八段を連覇、五人抜きをした。[16]この五人抜きに賞金が出た事も観戦記で触れられており[17]、規程や取り上げられ方、そして実際に賞金が出ている事を合わせて考えると、棋戦優勝としての条件は揃っている。また、第四回は熊谷達人七段の五人抜きが棋戦優勝としてカウントされており[18]、西軍の熊谷七段の五人抜きを棋戦優勝とするのであれば、東軍として参加した大山名人も棋戦優勝とするのが自然である。
将棋界や、棋士の側面、あるいは素顔が、この方々によってどのように語り継がれるかというテーマで毎号愛棋家を紹介していた「将棋万華鏡」という連載の9回目に、越智が選ばれた。
『近代将棋』1976年1月号
「まだ情景的な記録が欠けていると思います。対局中に後架(はばかり)に立つ回数とか、後架に行った次手に、他の対局をのぞいていて自席に帰ってこない棋士とか、詰みもしないのに詰んだと大声を上げる棋士とか、競馬新聞を読みながらなのに負かされた棋士とか、まだまだあると思うんですね。もっとも、こうした情景は、観戦記者の仕事かとも思うのですが、まだこれを記録として残すまでには行ってない。たいへん煩雑な仕事ですが、やってやれないことはないと思うのですよ」観戦記等を読みながら棋士の食事の記述を抜き出して将棋めしとしてまとめる、という不毛な作業を日々しているのであるが、記録の権威である越智のこの話を聞いてホッとした。
――たしかにこれは面白いし、記録の新機軸かもしれないが、こうしたことを記録された棋士はどういうことになりますか。プライバシーの問題も起きかねない――
「しかし、これらの現象が、対局者の真の姿なら、記録にとどめて永く子孫末代まで残さずばなりますまい」
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号
国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)
「それから、対局中に放屁をした棋士もいたんですね町田も「記録も、ここまでくれば、極限に達したというべきだろう。」と絶句しているのだが、
(中略)
だが放屁も一人の棋士がたまたまやったということではなくて、対局中にも放屁をするということを記録したいわけなんです」
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号
国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)
たゞありのまゝ描寫するといつても、汚たない話が、ある棋士が對局中、思はず放屁したとしたら、そのまゝ書いては愛嬌がない。これを神韻縹渺と描寫してこそ觀戰記の役目を果たすのではないだらうか、それでなければ全然黙殺すべきである。要するに、觀戰記は、小説の作法と同じくその取捨選擇が重要であつて、そこに主觀が作用して來る。観戦記に放屁の話を書くなら、そこに意味があるようにしなければならないとしたものである。
(中略)
必要以上に誇張した場合ならいざ知らず、將棋に關する限り、八段の諸先生は、時にたしかに英雄であり、神に近いであらう。ただその他の面が常人に劣るところありとして、かやうな人を英雄扱ひするのを苦しいといふのはどうかと思ふ。これを要するに、觀戰記も一種の大衆文學である。從つて面白く樂しく讀ませしかも將棋そのものゝ本道から離れないならば最上の出來といふべきであう。自嘲、懐疑は、要らざる心配であると考へる。「面白く樂しく」といふ、この「樂しく」は絶對に缺くべからざる條件であつて、面白いが、なんか嫌悪な感じのする文章であつたり、表現であつては効果をぐつと下げてしまふ。讀者は常に心に幻想を描いて棋士を考へてゐる。
黒崎貞治郎「將棋人國記」『将棋世界』1939年11月号
放屁なんてものは、およそ緊張した精神状態では発し得ないと思うのです。したがって精神が遅緩したときに限られていると見ていいでしょう。と、将棋の勝敗を結びつけながら放屁を論じている。
だから、対局者が遅緩した精神状態ということになると、概して勝局いや、敗局が一転して勝ち運がこちらに向いてきたときなど、ではないか。ホッとしたとたんに、ブウーということになったんではないかと思うのです
町田進「将棋万華鏡」『近代将棋』1976年9月号
国会図書館デジタルコレクション、近代将棋. 27(9)(318)
フアンの通有性として、自分たちの目標とするもののゴシップであろうとして、将棋の記事を書く時にゴシップを取り入れることを心がけていた。
菅谷北斗星「將棋の記事に就いて」『綜合ヂャーナリズム講座』第五巻、内外社、1931年
国会図書館デジタルコレクション、綜合ヂャーナリズム講座. V
将棋の本が技術の向上とか、入門書の類が主なのは当然ですけれど、将棋そのもののバックグランドを取り上げて書かれたものがあっても、と思います。将棋というのは、「指す」つまり対局が中心であることはゲームとして当然として、将棋を見る、将棋の話を聞く、総じて将棋を楽しむという面を充実させてほしいなと思いますね。強くなろうとするのはひとりでもできることですから。
鴻「棋界功労者インタビュー 読む、見る、聞くを楽しみに(越智信義氏)」
『将棋世界』1987年9月号
将棋連盟幹部諸氏の新時代に適応した諸政策が、この困難な時代によく棋界の黄金時代を招来した原因であつて、深く敬意を表する。本誌はこの新しい棋界のより良き発展の一助たるべく発足したものであつて、旧套を葉て時代の新感覚を追求して、将棋の永遠の前進向上に貢献せんことを使命とする。とあり、将棋だけでなくチェスの普及も考えて発刊された雑誌であることがわかる。
終戦の齎らした多くのことの一つにチェスの流行がある。チェスは将棋とその先祖を同じくし、兄弟の関係にある。最も近いゲームであるが、従来は比較的我国には普及を見なかつた。
戦後の世界チエス界は将棋と同様空前の隆盛振りで就中、米国、ソ連のチエス熱は凄まじい。日本チェス界も次第に有力となり近く日米対抗試合の学もある由て、その国際的進出も単に時機の問題と思われる。
本誌はこゝに着目し、チエスの普及をその使命の一つと考え之を取上けることとした。
創刊の辭に代えて『将棋とチェス』創刊號
順位戦の機構は欠陥の多いもので、いろ/\改革が叫ばれて来た。将連当局もよく之を知つて之が画期的な改革を思い立ち将棋新聞紙上に発表した。その骨子は凡そ次の通りであつたこの後に続く三・四の項は異議があり撤回されたとのことだが、一・二は採用されたとのことである。
一、BC級の対局を倍加して各八局とする。
二、時間記録方法を改めてチエス時計を使用し、一分間以内切捨を発する従つて持時間を一時間増して八時間とする
中島富治「将棋夜話(その三)」『将棋とチェス』1949年8月号
今期順位戦は持時間を八時間と一時間の延長をしたがチエスオクロツクを使用するため一秒と雖も持時間の消費として計算されるので従来の一分将棋はなくなり終盤の指し手に要する時間を考慮して置かねばならないやはりチェスクロック方式が採用されたようで、8時間切れ負けとして運用される手筈となっている。
順位戦新編成『将棋評論』1949年8月号
日本将棋連盟は昨年の順位戦ではじめてチエスクロツクを採用したが、終盤最後の緊要時に支障ありとして、最後の一分間となつてからは従来通り一分未満切捨制を再用(原文ママ)した。そのうちチエスクロツクの故障続出などによつて一先づ之れが使用を廃して旧制に復して仕舞つた。時計の故障はいたし方もないがその他の理由は首肯し難い。チエスクロツクは将連がはじめて使用するのではない。チエスでは世界各国悉く之れを使用して居る。不慣れのための欠陥は慣れることによつて解消すべきである。チエスクロツク使用の効果は大きい。進んで之れを取り入れることを希望してやまぬ。なるほど。確かにチェスクロック方式は採用されたようであるが、結局廃止になったようである。
中島富治「将棋夜話(その九)」『将棋とチェス』1950年2月号